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2014年 02月 20日

別嬪さん


老舗の桜餅
ほんのり ほんのり 桜色
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別嬪さんでっしゃろ^^
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塩漬けの桜の葉と甘い餡子の醸し出す味
何とも言えまへん



おまけは
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陣太鼓 
友人のお土産です

管理画面が強制的?に変わりましたのですか?
いきなり〜〜〜でちょっとビックリ
試用期間はやっと終わったの?
ま だんだん慣れますやろ


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by hanarenge | 2014-02-20 20:52 | 心模様 | Comments(6)
2014年 02月 14日

私とケーキ(節分はケーキ記念日)

小林カツ代さんが1月に亡くなりましたね。

私は彼女の楽々ケーキづくりを24年ほど前に書店で手に取りました。
それは、まさに目からウロコでした。
早速購入、夢中になって読みふけり、私にもきっと焼ける!私の息子たちに焼いてやりたい!そう強く思ったのです。

ケーキを作るのがとても上手な同僚がいて、泡立ての要らないベイクドチーズケーキのレシピを貰って焼いたのが初めてでした。魔法のように上手く出来ました。
クッキーは何度も焼いていたのですが、ケーキはそれが最初。
でも、それから田舎に引っ込んだ私は、中々ケーキを焼く暇もなかったのです。
材料だって、今みたいにネットでクリックと言う訳にも行きませんし、田舎では中々お菓子の材料は揃いません。
所が、小林カツ代さんのケーキレシピは小難しい手順も要らないし、田舎のスーパーか、私の勤務先のある小さな町のスーパーでも、揃える事が出来る物が多かったのです。

このレシピで初めて焼いたケーキは24年前の節分の日です。
イワシを焼きながら、全卵仕立てのスポンジケーキを焼きました。
イワシは表で七輪に炭火で(魚は七輪で、表の庭で焼いていました、七輪の煙がすごいから家の中では焼けません)
中では楽々ケーキ作りを広げて、玉子を泡立てて、ああ!イワシも見にいかなあかん!バタバタでした。
ドキドキのケーキ作り、オーブンの中では卵と粉と砂糖の種が膨らんで金色に焼けている!
息子たちは、ニコニコしながら私とオーブンを覗き込んでいました。
焼き上がったケーキは、ふわふわで甘い匂い、こうして私のケーキ作りは始まったのです。

ザッハトルテを焼いた時、チョコレートでコーティングして砂糖をぱらぱらと振るのですが。。。。

それを家庭訪問に来てくれた次男の担任(次男は小学2年生)に薦めて、先生が帰られた後で、ヤレヤレお茶しようっと一口食べて。。。。。。
??ちょっとしょっぱいぞ??あら・・・(゚_゚i)タラー・・・塩だった!!と言う具合なミスもありました。

あ、もちろん、ケーキ自体は砂糖で作ったのですよ。
あくまでも塩はぱらぱらの分です( ̄ω ̄;)


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆。。。。。。。。。。。。☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


時は流れて、いつしか息子たちも成長し、私たちは再び都会で暮らす事になりました。
こちらに来て、ケーキを焼く時、息子がいれば必ず手伝ってくれました。
次男曰く、「子供の時、お母さんがケーキ焼く言うたら嬉しかった」
私は、息子たちの「美味しい!」と言う言葉が嬉しく、更に次は何を焼こうかと考えたものです。


小林カツ代さんのケーキの本は私の宝物、幼い息子たちと田舎の父母が食べてくれた私のケーキの想い出がページから溢れている。
父は、お!美味そうやなといつも言ってくれました。
ケーキばかりではありません。好きが高じて小林カツ代さんのお弁当作りハッと驚く秘訣集も同じ時期に手に入れた私。
この中の三色丼弁当は絶品です。
もう一つ、わざわざ冷凍の薦めと言う、鶏肉のミンチの肉団子があります。
冷凍物は使わないと言う小林カツ代さんが、この自家製肉団子はわざわざ冷凍しますと言うだけ有って、色々使えます。
カツ代氏レシピの肉団子の揚げ物
揚げたてにお醤油をぴゃ〜〜っとかけてね。
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久しぶりに作りました。
長い間闘病された小林カツ代さん、今はもうお楽になったのですね。
でも貴女がいないのは、とても淋しいです。

さて、今日はバレンタインデー。
私は用心棒にガトーショコラを焼いて差し上げる事にした 笑
アップルパイに続けだ、お菓子作りは楽しいものだ。

お昼のテレビでやってた、ガトーショコラ。ふわふわのメレンゲとチョコレイト。

さっそくレシピを真似て。
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1 材料を揃えましょう 卵は古いんとちゃいます、卵白と分ける時殻が硬くて卵黄が壊れたんどっせ^^;
2 チョコレイトは製菓用のクーベルチュールチョコレートをAmazonで購入
これは製菓用なので、コーティングはしてありません。もちろんこのまま食べてもいい味ですよ。
3 使う道具も出しておきましょう(いつもは、あれが要る、これが要ったと慌てて出すのです)
4 チョコレートとバターを湯煎にかけて完全に溶けたらしっかり混ぜてなめらか〜〜〜に。
5 その中へ、泡立てた卵白を半分どかんと入れる、丁寧に丁寧に底からホッパーで混ぜる。
6 残りのメレンゲも投入、泡を潰さない様に、でも、しっかりと底から混ぜる。
7 チョコレートとメレンゲが混ざりました。かる〜〜〜い感じ、いい感じと♡自画自賛。
  因にこのまま冷やせばムースに、凍らせばアイスクリームになりまする。

しかし・・!

ムース様になった種に意気揚々と小麦粉を放り込んだ私、軽いね〜〜〜〜!
違う!!!重い!重たすぎる!

8  かる〜〜い種が溶岩流のようにケーキ型の中で固まってはる〜〜〜〜涙

レシピは・・・・・・・・メレンゲに加える砂糖は80g、小麦粉は40g。。。。。。。
ああ!無情!私は砂糖のグラム数を見ていて小麦粉も80gにしてしまっていた!

小麦粉を入れたばかりなら、なんとか、粉をすくい上げる事も出来ようが、もう混ぜてしまったのだ!
どないしょう、失敗やんか〜〜〜〜〜((((ノTTTωTTT)ノ 完璧アホやんかあ。

若いときなら癇癪切れまくって、ぜ〜〜〜んぶゴミ箱行きやったかもしれへん。
そやけど、勿体ない、何と言うても、もったいないやんか。
もう無塩バターも70gくらいしか残ってえへん。作り直すんは今からでは無理や。。。。。。

ええい!このまま焼いてしまおう!な、そないしょう、、、ともう一人の癇癪持ちの私に言う。

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ほんまはここでブランデーも入れるんやけど、小麦粉騒ぎで忘れ果てる。。。。

予熱の上がったオーブンに放り込んだものの、カチコチの石みたいに硬いガトーショコラが目の前を踊りながら横切って行く。。。。。



小林カツ代さんのケーキの本を引っ張り出して、ガトーショコラを見ると、何と!!チョコレートの分量と卵の分量に少々の差はあるが、小麦粉は70gとなっている。

いけるかもしれへん!!!いや、いけるはずや!アホみたいに唸る私。




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溶岩流のケーキはめでたく焼き上がりました。硬そうやね〜〜〜〜〜笑うしかないわ。

小麦粉倍量、お酒入れ忘れのケーキでもちょっとお砂糖振ってみた。(粉糖切れてるし)
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して!結果は

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うま〜〜い チョコレートがうま〜〜〜い もの凄くいい感じに焼けた


今度は、小麦粉40gで焼くんや。もっと柔らかい軽いケーキになるやろうね。
そやけどな 80gでも、中々いいんよ、ほんまよ。
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by hanarenge | 2014-02-14 17:34 | 心模様 | Comments(10)
2014年 01月 26日

大きなお寺で

久しぶりに行ったのは大きなお寺。

ズラリンと並んでた。温いでぇ。
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こんだけ有ったら、寒さ知らずやな。

春の桜の妖艶な雰囲気ではありません。律儀に毎年花をつけます。几帳面な印象があるのです。
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早咲きの桜、なんて言うんやったかな。。。。。。寒桜?まんまや。

山茶花は白が好き?
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バラ科やなあと思いました。椿はバラ科やもんね。

山茶花の木を長男が小学校の卒業記念で貰いました。

田舎の大きな柿の木の側に、今は亡き父が植えてくれました。小さな小さな苗木でした。
赤い花が、その次の年に少し咲きました。

今、山茶花はとても大きくなって、毎年、ざんざん花を付けます。赤い山茶花です。
田舎の家に誰もいなくなっても、毎年山茶花は赤い花を咲かせるでしょうか。

私の目には、誰もいない田舎のお日様がぽかぽかと照る冬の日に、赤い山茶花が光っている様子が浮かびます。負けるな!山茶花。



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箱入り娘みたいに柵の中で咲いていました。
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たっぷりの赤。
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これも田舎の話ですけど、花壇に南天と松と牡丹が植わっています。
松は枯れてしまいました。牡丹はもう百年近く経ちますが、毎年花を咲かせます。
南天も白と赤が競うように実を付けます。

そんな花壇は、祖父が丹精していました。
所が、母だけになり、農地が原野に戻りつつ有るこの頃、猪が山から里に下りてきてさんざん悪さをするようになりました。 南天も牡丹も、もう、風前の灯です。

切ない話です。

シクラメンは燃えるようです。
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私はどうも上手く育てられません。頂いても、結局枯らしてしまいます。
だから、この頃は見るだけにしています。
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by hanarenge | 2014-01-26 19:01 | 散策中 | Comments(4)
2014年 01月 05日

2014年 正月あれこれ

2014年も4日を過ぎました。

皆様、良いお年を迎えられた事と存じます。

私は年末から年始は、ほとんどPCを開く間もブログを書く間もありませんでした。

今年も、のんびりと気ままにブログを綴りたいと思います。

どうぞよろしくお願い致します。

さて、私のお正月です。暮れの31日には次男が帰省、母も来ます。

30日から作り始めたお節です。昆布巻きとクワイは市販のもので、後は私の手作りです。
毎年の事ですが、やっぱり作った甲斐はあります。
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大晦日は帰阪した次男とおしゃべり。これが私の一番の楽しみです。
母も次男に会えて、とても喜んでいました。話が弾みます。

今年はPCを持って来た次男。彼の仕事を見せてもらいました。
充実した仕事ぶりで、親としては頼もしく思ったり嬉しく思ったり。。。。いや親バカ^^


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あっと言う間に次男が東京へ行く日になります。毎年最寄り駅まで送って行きます。
今年も京都の友人宅へ顔を出すと言う次男。京阪の京橋まで一緒に。

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お昼にお鮨を食べてから行きましょう。

上はウォーカーのリッチフルーツプディング。洋酒とドライフルーツやら松の実やらがいっぱい。
温めてもいいのですが、私的には冷たい方がいいかな。。。。
本当はクリスマスのお菓子だと思うけれど、お正月に頂きました。我が家には合う味です。

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ここでお別れ、私は淋しいなあ!


彼は小さい頃から私に心配をかけた事のない子でした。行っていらっしゃい!また帰ってお出でね。

この日は有楽町の火事の影響で新幹線が大幅に遅れています。
どうなったのだろうと心配していましたが、21時頃には元気な声で電話が入りました。
京都から乗った新幹線は混んでいたけど、無事に東京に着きました、やれやれ安心です。

今年は長男一家は、お正月には来ませんでした。
真ん中の孫ちゃんが水疱瘡になって末っ子もどうやら怪しい模様。今年はゆっくりお家でお正月を過しています。

今年は母も田舎に早く帰りました。
例年ですと、まだ我が家でゆっくりしていて私がこうしてブログの更新等をしていると、何をしているのか聞いてくるのですが。。。。。
今年も元気でいてくれる事を願っています。
ちょっと地味目のお正月でしたが、みんな元気です。
上の姪っ子の結婚も決まったり♡など
嬉しい事がいっぱい有るといいなあと思うこの頃です。

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次男を送った帰り、四天王寺さんへ寄ってみました。ハルカスが見えます。
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by hanarenge | 2014-01-05 00:09 | 天使の宝箱☆ | Comments(12)
2013年 12月 24日

今年も後わずか

今日はChristmas Eveですね。
皆様、いかがお過ごしでしょうか。

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今年も孫達へのプレゼントを用意。
イヴのパーティーをする訳でもないのだけどね。この前、食事に連れて行ってもらった時にパパサンタに持って帰ってもらいました。

私たちへのプレゼントは?
d0027244_15135383.jpg末っ子の孫がやって参ります。お父ちゃんもお母ちゃんもお兄ちゃんもお姉ちゃんもディズニーランドへ行って楽しむのさ。
私は置いてきぼり〜〜〜〜... 



長男一家は明日から5日間のお出かけ、まだ小さい末っ子は連れて行っては貰えません。




まあ、お留守番は私たちから長男一家へのプレゼントのような物だわね。
問題はこのチビ助がここで大人しくしているだろうかって事。た め い き。

1才と9ヶ月の末っ子ちゃん、やんちゃでごんたで甘えん坊^^。。。。。。。
明日から暫く嵐のような日が続くのである。


キッチンからも。
ジンジャーシロップ(生姜糖)をまた作りました。
まいまい京都でパン屋めぐりをした時に、枡形商店街で買った生姜で作ったシロップが無くなったのですよ。
以前新生姜で作った事は有るのですが、それだと季節待ち。でも温かい生姜湯もジンジャーティーもこれからにはぴったりでしょ。
今回は薄切り生姜を暫く水に晒して、砂糖をまぶして一晩置きました。
いっぱい水が出ているのでそのまま煮ます。
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ベイリーフとクローブも少し入れました、いい香り。
後の生姜は陰干しにして、砂糖をまぶして生姜糖にします、出かける時にポケットに少し忍ばせて。
甘くてピリリと生姜の香り、中々美味しいお八つです。
500g強の生姜で専用の瓶に二本分のシロップです。柚子も合うかな。
高知から柚子果汁を売りにきていたのに買わなかった。。。。。激しく後悔中 笑。



お次は年末恒例の。
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お嫁ちゃんの実家から毎年送って下さるマグロです。○○さま♡いつも有り難うございます。
皮を剥いで、ブロックに切り分けます。
この作業のときは前もって、手洗いの溶液を作って流しに置きます、でないと後が大変。
キッチンペーパーや使い捨ての古いタオル(もちろん洗ってありますよ^^)も用意します。

初めは中々上手く出来なかったけど、最近は漸く慣れてきました。言うほどでもないのですけどね。
切り分けたマグロは二三軒に少しだけ^^お裾分け、お正月用に冷凍も。
本当は生が一番ですよね、でも正月まではちょっと持たないもん。

頂きまぁす。
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碌な包丁がないので、見苦しいですが。。。。。
添える大根も自分で作って、青じそと一緒に。

新鮮でピチピチ、モッチリ。ごちそうさまでした。後一回くらいは食べられそうね。
さあ明日から忙しくなります。
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by hanarenge | 2013-12-24 19:32 | 心模様 | Comments(4)
2013年 10月 04日

お花とか怠け者とか。。。。

中之島から難波までぷらぷら歩き。

お花が咲いていました。
やさしい色やね。
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この花のイメージにぴったり。

2013 10 6 追記。
花の名前を何処かで聞いたのに思い出せない。
そうなると気になってしまう。別に名前などいいのにとも思うけど、気になるのね。
日日草と言う花でした。


中之島のバラ園で。これは夏の名残の薔薇?
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一番ベッピンさんの薔薇。府庁の北側に咲いてました。
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名残の薔薇か・・・・・何だかしみじみしちゃう私。歳取ったなあって実感。

ハチは元気に働いてます。蟻には群れの何%かの怠け蟻がいて、怠け蟻の方が長生きって何かで読んだけど。。。。
ハチも蟻も似たような社会でしょ?ハチにも怠けハチがいるのかしらん。。。。。
私が蟻なら・・・・・きっと怠ける方ですね。長生きは別にいいけど。。。。
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おまけ 御所の彼岸花。まいまい京都で見かけた。
梨の木神社にマンションが建つんですってね。もう決定だとか。
鳥居の前の参道と駐車場がそうなんですって。
う・・・・・・ん、いいのか??
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おまけのおまけ。カスピ君。青バージョンもあります。
ほのぼの〜〜〜〜ほのぼの〜〜〜。
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二万円を超えるカスピ君(@@)よう買わんわ。顔だけ見とくね。

アップして気がついたけど、何故イイネぼたんが出たり出なかったりするのかしら????
解らんなあ〜〜〜〜〜〜。





解った。アップの時、プロフィールに投降のチェックを外したらイイネが出ないんやね。
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by hanarenge | 2013-10-04 17:15 | 心模様 | Comments(8)
2013年 09月 28日

戦争の事 酒井雄哉大阿闍梨の事

戦争と言うと、どの戦争を思うだろう。
世界中で、戦争の無かった時代は無しと言うくらいだろう。
古来より、人々は争い殺し合い、世界中の国々は自らの繁栄を戦争と言う手段で実行してきた。
東西冷戦は、遠い昔ではない。ベルリンの壁の崩壊、ソビエト連邦の解体、歓喜に沸く人々。
ニュースで流れるそれらの映像を見ながら、私は、これで平和になると能天気に思っていた。
所が大間違いだった、戦争はますます大きく拡大していった。。。。。

日本で戦争と言えば、やはり第二次世界大戦、太平洋戦争だろう。
私が物心ついたときは、戦後は過去の物になりつつ有った。
もはや戦後ではないと言う言葉が聞かれたのは1956年だったのだ。
私は30年代生まれ、戦後の苦労も戦中の苦労も知らない。知っているのは、だんだんと豊かになる日本の事だけだ。

戦争の事は映像で、文字で、ネットで色々書かれている。
だからイメージとしては解る、しかし、本当の所はどうだったのか。
日本の国民はあの理不尽な時代をどう耐えたのか、父や母に少し聞くだけで、私はあんまり関心を持ち得なかった。
父は、都会で暮らしていて、アメリカがどういう国か良く知る機会が多く有ったらしい。
だから、絶対に日本は負けると思っていたそうだ。折りに触れてそう言う事を言っていたらしいが、職場の人にきつく諌められたと言う事です。
それはその当時としては「日本国民にあるまじき思想」だったろう。
父も、その当時の大半の人と同じように、夢を諦めざるを得なかった一人です。
戦争がなかったら、ずっと都会で暮らして、もしかしたら、渡欧か渡米を果たしたのではなかったかとこの頃私は思います。

96才の遺言
heartartページの中の戦争体験手記のページです。

ここに書かれてある記事は、私もリンクを頂いている「八十代万歳!」のhisakobaabaさんが、入院された時に同室の患者さんでいらした久米けいさんのお話を聞いて、ご本人の了解を得て記事にされたのです。

hisakoさんの 戦中戦後の子供の暮らしも、ここで読む事が出来ます。

hisakobaabaさんの久米けいさんの記事は96歳の遺言 戦争だけはやっちゃダメです。

hisakoさんは70代にブログを始められて、この間80代になられました。
hisakoさんの戦争のお話は、ニュースでは知る事のない「実際の戦争の話」です。

iPadとSurfaceを駆使して、ブログを書いていらっしゃいます。

hisakoさんが、ブログの記事を丸ごと引用してもいいですと仰って下さったんですが、そうしたらとても長文になるので、所々引用させて頂きます。

久米けいさんはこう語ります。青文字がhisakoさんの記事から久米けいさんの語りの引用です。
私の大事な孫や曽孫たちへ。
これはおばあちゃんの、「戦争だけは絶対やっちゃダメ」と言う遺言です。
たった一枚の赤紙(徴兵命令書)で人生を狂わされて、戦争が終わって、もっと酷くなった生活との戦いを、一人で戦わされたおばあちゃんの、「戦争だけはやっちゃダメ」という、叫びです。

私は大正6年3月17日生まれ、平成25年の今、満96歳になりました。
目は見えないし、耳もひどく遠いけど、アパートで一人暮らしをしています。次男には先立たれたけれど、遠くないところに嫁も孫もひ孫もいて、時々来てもらえるし、昼食と、夕食の時に、ヘルパーさんが1時間くらいずつきて、ご飯作ってくれる。
他は昼も夜も一人の時間が長いけど、最近自分で、死に支度を済ませたから、血圧も下がって元気が出た。

大正から昭和になって、世の中はひどく不景気になった。
私が14歳の昭和6年には満州事変が始まった。
始めちゃった戦争を、終わらせる知恵が日本にはなかったんだね。ボロボロになるまで、14年間も戦争ばっかりしてたんだから。
14年間ぼろぼろになるまで戦争してた 終わらせる智慧が日本には無かった これ本当に同感です。

戦争で病気になったんだから戦病死と認められ、九州の部隊に書類を出した。その部隊が沖縄で玉砕しちゃって、戦争が終わったら、提出した死亡診断書が見つからなくなっていた。それっきりうやむやにされて、結果戦病死とは認めてくれなかったよ。

長男が生まれて半年で、夫は戦争に行っちゃった。
次男が生まれて半年で、今度は帰れないあの世に行っちゃった。
結局私は、いつも誰も頼れないまま一人で頑張るしかなかったんだ。
父親も戦争中六十代で死んじゃったしね、男を頼ることのできない運命なんだろうね。


そして、昭和20年4月13日夜、豊島区の殆んどが火の海になったんだ。
330機のB29が豊島区を中心に火の雨を降らせた。
焼夷弾ってやつは一個のさやの中に38発も入ってて、空の上で38倍にはじけ飛んで、燃えながら落ちてくるんだ。何万の火の玉が降ってくるんだから、下に居る者は生きた心地はしないよ。

巣鴨は周り中が火だったから、逃げ道がまるでなかった。
2歳半の次男をおぶって、ねんねこ(子供を負ぶって着られる綿入れの半纏)着て、掛け布団一枚持って、どっちに逃げればいいかわからない状態だった。隣組の組織なんてなんの役にも立ちゃあしなかったよ。

火の雨の中逃げ惑って、水のある所へ行った。貯水槽の水を、バケツで何杯も何杯も掛けてもらって、布団をぐっしょり濡らして被って、火の中を逃げ回ったら、布団が乾いて燃え出した。それを捨てて、走ったら、誰かが「ねんねこ脱げ~っ」て叫んだ。背中が燃え出していたんだ。ねんねこは捨てたが、子供は着ていた着物まで焼け焦げて、火傷をして泣き叫んでいた。
東西南北どっちを見ても、火が燃えてるんだからもう地獄だったね。
その後はどうなったかわかんない。焼夷弾の雨に当たらなかったのが不思議だった。そこら中の地面に筍のように突き刺さってるものを、なんですかって聞いたら、焼夷弾だって言われた。
爆弾も落ちて、吹っ飛ばされた。朝になって、爆弾の落ちた丸い穴の近くに居たら、「ここで死ななかったなんて、奇跡だ」と驚かれた。

幸いにも空襲の晩 母親は、府中の叔父さんの家に泊まっていて助かった。私らも府中に行ったが、長く泊めて貰える状態ではなかった。叔父さんだけはとことん面倒見てくれようとしたんだが、他の家族の嫌がらせに耐えられず、当てもなく飛び出した。親戚にだって、無一文の焼け出されは、いい顔されるわけがないからね。みんな自分たちが食べるにも不自由してたんだから。

それからの、住まいの苦労はひどかったよ。落ち着く暇もなかった。立て続けに引っ越したこともある。
あの頃はね、家が広くたって、焼け出されの一文無しを泊めてやろうなんて家は一軒もなかったよ。みんな冷たかった。

終戦の前の日に、疎開しようと埼玉へ引っ越してしまった。その途端戦争が終わったので、引っ越し荷物を運んできた牛車に、そのまま東京へ戻ってもらった。無駄なことをしたわけだが、でも嬉しかった。日本が負けたんだが、もう焼夷弾に追っかけられないんだから、ただただほっとした。



戦争がどれだけ人の暮らしも心も破壊していくか、戦争がどれだけ人々に難渋を押し付けるか
頭では解ったつもりでいても、実際の体験とは天と地ほどの違いがあります。
空から爆弾が振って来るのです。爆弾はいったん爆撃機の腹から空中に放り出されると、小さく分かれ、地上に激突したら炎となって人も物も焼き尽くすのです。
アメリカは、ネバダか何処かの砂漠に日本の家(木と紙と土で出来た)を沢山建てて、どういう攻撃が一番効果が大きいか実験を繰り返したのです。(随分前にNHKで放送されていました)。
その結果、焼夷弾が作られたのです、これもクラスター爆弾です。

貧乏人は蔑まれる。身内からさえ疎まれる。けど、私が怠けて貧乏になった訳じゃないよ。
国が起こした戦争で、夫も財産もすべて奪われたから、貧乏してるんじゃないか。
今なら、津波で家をなくしても、仮設住宅に住める。空襲で焼け出された者は、仮設住宅の半分もない、四畳半一間だって、法外な家賃を取られてたんだ。国は何も助けちゃあ呉れなかった。何の保障もしなかった。
貧乏は恥ではないが、切なかったさ。


国民は、国が勝手におっぱじめた戦争で、最大の難儀を背負わされるのです。
平等な筈の国民でも、コネのある人は楽が出来、正直な人ほど難儀するのです。
恥ではないが切なかった、この言葉に涙が出ます。

あたし等は国に騙されたんだ。踊らされたんだ。昭和初期のように、右向け右、右へ倣えなんて踊らされていたら、酷いことになるよ。歴史は繰り返しちゃあいけない。

原発だって同じだ。福島でどれ程の人が泣かされてるか、ちゃんと助けてもいないのに、再稼働したいとか、外国に売ろうだなんて、国は何考えてるんだ?信用しちゃダメだ。

とにかく戦争をする国にしちゃあダメなんだからね。
戦争だけはしちゃあならないんだよ。
戦争で良いことなんか何にもないんだからね。これがおばあちゃんの遺言です。 
 

久米銈(けい)さんは、9月19日の中秋の名月の日に亡くなられました。
ご冥福をお祈り致します。
hisakoさんが、まさに遺言の聞き手となられたのです。
hisakoさんが久米けいさんと出会われた事は、本当に良かったと思います。
運命とか奇蹟とか、あまり言いたくありませんが、久米けいさんの言いたかった事が、hisakoさんによって文字になり、多くの人の目に触れる事になった事はとても嬉しい事です。


私が聞いた話。
大阪の空襲の時、燃える町から必死で逃げた人がたどり着いた淀川(と聞いたと記憶しているのですが、ちょっと曖昧ですみません)の向こう岸には沢山の人が押す押すなの状態で逃げて来ていたのです。
向こうに行きたくても、もう人が多すぎて行くのは無理だと言われました。
後ろからは、逃げて来た自分の町が焼き尽くされ、炎は、今度は自分たちを焼き殺そうと背後に迫っていました。
仕方がないので、岸を少し移動して草むらに隠れました(おそらく気休め程度の移動だったと思います)
そこへ、アメリカの爆撃機がもの凄い低空飛行で背後から迫りました。
ふせろ〜〜〜〜〜!!!!!!誰かの大声で、草の中に突っ伏しました。
もの凄い音と共に機銃掃射が始まりました、それは今でも体が震えると言っていました。
頭を上げた時・・・・そこで見た光景は。。。。。。。。
川向こうの大勢の人が体中に穴をあけられ血まみれで、草の中、川の中、土手の上、一面に転がっていたり浮かんでいたのだそうです。

こんな光景が、沢山、沢山、あの町、この町で繰り広げられたのでしょう。

私は命拾いをした。。。。。そう言ってその人は泣いておられた。惨さは忘れられないと・・・・。

戦争は、命の取り合いです、血と火、爆弾の音、果てしなく続く飛行機の爆音。
あの飛行機の爆音は、どんなに恐ろしい音だったでしょうか。

私の叔父(母の弟)は、終戦(敗戦だと父母は言います)間際に招集されました。
赤紙一枚で名誉の入隊です。
村の外れのお墓の所まで皆で送ったそうです。
そして、一ヶ月くらい経って(記憶はあやふやですが)手紙が来たのです。
それには、近く外地に趣くような事が書かれてあったそうです、母は田舎から弟に面会に行きました。
電車はとうに動かないので、ずっと歩いたそうです。線路の上(線路はなかったらしい)を、差し入れを背負ってとぼとぼと歩いたと言います。
その時代は、皆歩くので、母の村から叔父のいるW市まで歩くのはちっとも苦にならなかったそうです。
任地は、軍の機密事項とかではっきりとは言わなかったそうですが、どうも中国らしかったと。

しかし、8月6日に広島に原子爆弾が投下されました。
叔父達の連体は、急遽広島入りを命じられたのです。

母が、戦争が終わって帰って来た叔父から聞いた話として少し私に話してくれた事があります。

まだ、原爆が落ちてから一週間も経っていなかったそうです。
叔父の目の前に真っ黒に焦げた母と子の遺体があったと。
惨い事この上ない地獄絵を叔父は目撃したのです。

軍の倉庫には、砂糖、缶詰、毛布、その他、市場にはとっくに出回らなくなった物が山と積んであったそうです。(これは多分、終戦してからの事だと思います。叔父が終戦を広島で迎えて、その後もすぐには除隊にならなかったのだと思います。)

食料事情はとても悪く、配給制でした。
母の家は田舎で、農家でしたから、町の人のように食べるものが無くて困ったと言う事はありません。
作った米は、勝手には出来ず、供出しなければなりません。
麦を混ぜて米を炊くのですが、どうも不味い。祖母は(母の母です)お粥で食べのばしを計ったそうです。
この他にも、芋、南京などは必須作物です。
魚や肉は配給、でも川で男の子達(母の弟達も)が仕掛けて川ガニや鰻などもたまには食べたとか。鮎も好物です。
きっと食糧難の時代ですから、大人も盛んに獲った筈、子供達では分け前も少なかったでしょうね。
戦後の話ですが、町から食べ物を求めて大勢の人が田舎に来たそうです。
さつま芋を買いに来るのです。
祖母(母の母)は、小さい芋をふかして籠に入れて表に置き、誰でも食べられるようにしていたのですが、ある日、町から来た親子連れが、家の前に立ちました。
さつま芋を少し分けてもらえませんかと言う事です。
大きなさつま芋を出して、売ってあげた後で、籠の芋はオヤツに食べて下さいと言うと、その人はとても喜んでくれたそうです。
その人の小さな男の子は、自分は食べずに、これは誰の分、これは誰の分と言いながら粗末な服のポケットに盛んに芋を詰め込んでいました。
祖母が、お母さんがいっぱいお芋を買うたから、それは食べてもいいよと言うと、ほんまか!と顔中笑顔にして、両手に芋を持ってほおばったと。

美味しい物は食べられなかったけど、ひもじい思いはせんでもすんだと母は言います。
あの子は、毎日毎日お腹をすかしていたんやなあと。。。。。
飢えは、惨い物です。

長くなりました、戦争の記事はいったんこれで終わりにします。

2013年9月23日 酒井大阿闍梨が亡くなられました。

以前千日回峰行のドキュメントをNHKで放送して阿闍梨の事を知りました。

千日回峰行を二度万行
した行者は比叡山の1,000年を超える歴史の中でもわずかに3名を数えるだけです。

私が阿闍梨に惹かれる理由は、下界で何をしても成功せず、それどころか、飲む打つ買うでせっかく貰ったお嫁さんも二ヶ月で自殺してしまったと言う、まあ言わば、しょうもない人物だったと言う所です。
絶望して、お山に上がった酒井さんは、どこで信仰に一身を投げ打つ心を持ったのだろうか。
どんなに修行は辛く厳しく思った事だろうか。
下界にあって、人生に負け続けた酒井さんが大阿闍梨と言われるようになった。
人は変われるのだなあと心底思うのです。

酒井大阿闍梨も、特攻隊の生き残りです。もう死ぬ覚悟で臨んだのに生き残った。
その辺りの気持ちも、その後の下界での破天荒な生き方に何か影響が有ったのでしょうか。

どうぞ安らかに、私が言うのもおこがましいですが。

酒井大阿闍梨、久米けいさん、有り難うございました。
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by hanarenge | 2013-09-28 00:08 | 心模様 | Comments(4)
2013年 09月 22日

孫ちゃんたちと、ポテトサラダ が御馳走な訳

9月に書きたい記事はまだ2個残っている。
頭の中では出来上がって?いる(かな?)物の、中々書き起こす気にならずにぐずぐずしているこの頃。

18日には長男宅へ。お嫁ちゃんの心尽くしのランチとお土産に持って行ったケーキでお茶。
ケーキはダイエット中の私が、たまに食べたくて、お嫁ちゃんを巻き込んだのだ。

朝からお邪魔して、真ん中ちゃんと兄貴君がそれぞれ帰ってくるのを待ちながら、美味しいお昼を頂いて、ケーキも食べて、末っ子ちゃんと遊んで、遊んで、楽しかった〜〜〜〜。

兄貴君が先に帰宅、また大人っぽくなった感じです。彼はとても強い子です。
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真ん中ちゃんをお迎えに行く間、末っ子ちゃんは私と兄貴君とでお留守番。
だんだん慣れてくれてあちこちの部屋へ行こうと言います。
それについて歩くとけっこう面白いのです。象の玩具は引っ張って遊びます。

真ん中ちゃんは、お姉ちゃん振りがますます板について来て、妹の相手を良くします。
だから、末っ子ちゃんはお姉ちゃんが帰ると側にくっついています。

お兄ちゃんは宿題をやっつけている最中。
机でするより、ダイニングのテーブルの方がはかどるんだよね^^。

今度お嫁ちゃんと遊びにいく約束して帰って来ました。

ポテトサラダは、私の中では特別な感じがあります。
キュウリと人参、たっぷりのタマネギ、ハムを少し入れて。
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山の分校の給食室は私が小学校2年生の時に建ちました。
真っ黒いおくどさんが据え付けられていました。ご飯はおくどさんで炊きます。
今から思えば、とても贅沢な給食でした。

本校の給食は味気ないパン、たまに出るご飯はガス火炊き、だからちっとも美味しくなかった。
6年生になって本校に登校するようになり、初めて食べたご飯の不味さにショックを受けた事をありありと思い出す。

分校の初めての給食の献立は今でも覚えている。
月曜日は、肉うどん、火曜日は秋刀魚の蒲焼き、水曜日は何故か汁粉が出た。木曜日はヒジキの煮物が有った、金曜日はちらし寿司、だいたいがこんな感じで、後2品くらいかな。
まず〜〜〜いミルクも出たけどさ。

で、火曜日の秋刀魚の蒲焼きに付いているのがポテトサラダだった
専属の調理士さんが来るまでは、父兄が交代で給食当番をした。
火曜日は、母の当番だった。
私は、母がポテトサラダを作るのを、休憩時間に給食室の窓の外から見ていた。
お母ちゃん、ちゃんと出来るやろか・・・・・
何故こんな事を思ったのだろう。。。。。今にして思えば、家でポテトサラダなんて出た事がなかったからだ。
美味しくなくて、皆に残されたらどうしよう、、、、そんな事を思っていた記憶がある。
出来上がってお皿に盛られたポテトサラダをドキドキしながら口に運んだ。
美味しい!!!思わずにっこりした私、その日の給食はメインも付け合わせも味噌汁も全員完食だった。
いや、大概の日の給食は、皆、完食なのだけどね。

子供達と田舎にいた頃、畑から穫ったジャガイモは、母の手で、ポテトサラダに、コロッケに、カレーに、ポテトフライ、煮物、おでんと色々な料理に変身しました。

今でも私にとって、ポテトサラダは特別な御馳走です。
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by hanarenge | 2013-09-22 00:23 | 心模様 | Comments(6)
2013年 08月 25日

世界報道写真展

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8月14日、写真展へ。

地下から見上げたら、垂直のビルと青い空が見えた。
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都会はどんどん顔を変えていく

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地下街の緑 暑くても外の方が好き

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思ったより大勢の人が写真展に来ていた。

虐げられた子供と女 ゴミの山の生活 自爆テロ 報復の連鎖 爆弾の煙 焼けただれた町

以下、感じた事を感じたままに書き連ねます。文章は繋がらず書いている事も繋がらす意味不明です。
不快感を覚える方もお出でかと思います。

クリックはご自分でご判断下さい

心に浮かぶよしなしごと
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by hanarenge | 2013-08-25 13:47 | ニュース | Comments(6)
2013年 08月 03日

8月も猛暑!!!だそうですよ

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8月はますます夏が肥え太るそうですよ。

皆様、どうぞご自愛下さいませ。
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by hanarenge | 2013-08-03 01:22 | 心模様 | Comments(12)