心の万華鏡  

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2015年 08月 24日

Elvisの事 2

さて、除隊してドイツから帰国したElvis。

豪華な邸宅に帰ったけれど、迎えてくれる母の姿はなかった。

人気者の彼には、沢山のファンも仲間もいたし、取材もたくさん来ただろう、きっと忙しかったに違いない。

しかしElvisの孤独は、癒されるどころかますます深まったと思う。

仕方が無い事だけれど、母のいない事実が深く深く彼の心を捕らえていたのではないのかと。。。。

そして彼のマネージャーのパーカー大佐の方針も有り、帰国以降の彼は映画の撮影が続く事になる。

内容は・・・・・・まあ、いわゆる簡単お手軽のミュージック映画。
エルヴィスが歌い、踊り、きれいな女の子がたくさん出て、最後はハッピーエンド。
物語の舞台や配役は違っても、筋書きは似たようなものだ。

徴兵前の、エルヴィスの所に、初めて映画の仕事が来たときとても喜んだと言う。
まだ、スターになる前に、マーロン・ブランドや。ジェームス・ディーンに憧れていた1人の青年がチャンスを得て、漸く夢を叶えられるのだ。
台本を丸暗記したと言う話も聞く。彼の意気込みが伝わってくる話ではないか。

しかしこの話はElvisが主演ではないと言う理由で、パーカー大佐にあっけなく却下されてしまう。

次はThe Reno Brothers 主演ではないが、物語の鍵になるような役所
だけど、Elvisの意に反して、4曲も歌う事になっている。
シリアスな演技を希望した彼はさぞがっかりしただろう。

その主題歌が Love Me Tendaer

原曲はアメリカ民謡の「オーラ・リー」。これにプレスリーらが新たに歌詞を載せたもので、プレスリーの初主演映画『The Reno Brothers』(後に曲名と同じ『Love Me Tender』に改題)の主題歌として制作された。
シングル発売前の1956年9月に、プレスリーが『エド・サリヴァン・ショー』に初出演した際にこの曲を披露したところ、RCAレコードには100万枚のオーダーが殺到したという。当時、ビルボード誌のチャートでは、5週連続1位を記録。wikiより

原曲もアップだ
AURA LEA

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Elvisの演技は酷評されたらしいけれど 私は、初めてにしては中々じゃんと思っている。

こうして、入隊前に4本の映画を撮る事になる。
そして、やっぱり歌が挿入され、またこの歌が大ヒットするのだ。観客動員数も記録的になる。
プレスリーの映画は儲かる、誰もがそう思っただろう。

商業ベースに乗った彼の映画はこの後1969年まで何と27本もの映画が録られたのだ。
これでは、中身のある映画などになり様がない。
おまけに悪かったのか良かったのか、映画の中で歌った歌は相も変わらずヒットしたのだ。

ファンにしてみれば、そりゃそうだろう。話の内容は関係ないのである。
以前の様にステージで歌わないElvisなのである。
もうプレスリーに会うには映画館に行くしかないのである。
そして、かれに会い彼の歌を聴き、レコードを買うのだ。

私的には、入隊前に録られた「King Creole(闇に響く声)」なんかは愛情に飢えた淋しい青年と言う役所のElvisは良かったとおもうけどねえ、、、、

Elvisの元にウェストサイド物語を主演でとのオファーがあったらしい。
もちろんElvisは大乗り気だった・・・・が・・・・・またしても大佐である、時間がかかり過ぎるとか何とか言って却下。
パーカー大佐は、有能なマネージャーだったのだろう。しかし、もう少しプレスリーの事を尊敬してやってほしかったと思う。
サンレコードからぽっと出たヒルビリーキャットの頃ならいざ知らず。
もう大人になったのだ。彼は天性の歌手で、大きな才能に恵まれていた筈だ。

私はパーカー大佐は、海千山千の手合いだったと思うのだ。
彼はプレスリーを教育した。スターとしての立場や物腰も教え込んだろう。
人気者でいる為の秘訣も教え込んだろう。
そして、Elvisは百万$のスターになったのである。
「Elvis・Presley」は大佐がプロデュースしなかったら生まれてはいなかっただろう。

そう言う意味では、大佐の作品なのだと思う。

だからと言って、彼のやりたい事を頭から否定しなくても良いじゃないかと思うのだ。私なんかは。

Elvisは、内々では不満を漏らす事は有っても、パーカー大佐には従っていたと聞く。
彼にとって、大佐は父親のような存在だったのかも知れない。
実の父親は、到底、息子を受け止めてアドバイス出来るような人ではないから。

こんな時、グラディスママが生きていてくれたら。

不安や不満があったら、Elvisはきっとママに相談したり、胸の内を聞いてもらったり出来ただろう。
この後のElvisの人生も変わっていたのではないかと思えてならない。

ドイツに行く前に亡くなったママの部屋の前で泣いていたと言うElvis、なんか、とても可哀想でこちらまで泣けて来る。
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by hanarenge | 2015-08-24 18:03 | Elvis | Comments(0)
2015年 08月 23日

Elvisの事 1

Elvis Aron Presley
彼が亡くなったのは、1977年 8月16日
今だに、世界中でこの人の名前を知らない人は、ほとんどいないのではないかと思う。
Elvisと、ファーストネームだけで通用するのは、彼とイエスだけだと何かで読んだ事が有る・・・・

私にとってのエルヴィスは、白いジャンプスーツを着て、ステージで歌ったり空手のポーズみたいなパフォーマンスをしている、外国の歌手の人、そして、何だか、皆がパロディ化している人。。。。
それくらいの認識でしかなく、そしてそれを意識する事も無く、ただただ今まで来たのだった。

私より20年も早く生まれて、私が生まれた頃にはもうサンレコードからデビューしていたのではないか知らん????

ある日、何故か、自分でも説明がつかないのだけれど、ふと、エルヴィス・プレスリーとGoogleに文字を打っていたのだ。
出るわ出るわ、記事も写真も動画も凄い量だ。

若かりし日のエルヴィスは、唖然とするほどハンサムだった。

いや、「危険なほどハンサムだった」← これはその時にウェブで読んだ記事の中の一文です
私は、全くその通りだと深く思いました。

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そして彼のステージは、挑発的で、セクシーで、熱狂と歓声に満ちていた。

その熱狂の渦巻く中で、彼は甘く切なくブルースを歌い上げる。

声を張り上げて、ハートブレイクホテルや、ザッツオールライトを歌う。

その声は、大きな歓声にも負けず、はっきりと美しい発音で聞こえる。

彼の声は重い、重いが、透明感がある、濁りがないのだ。

彼は、ゴスペルもブルースも歌う、そして、その歌声は、心が癒されるような感じがする。



エルヴィスは、貧しい白人家庭の子供だ。
しかし、両親から惜しみない愛情を受けて育ったのだ。
父親が、公文書偽造の罪で、刑務所に入っている間、幼いエルヴィスと母、グラディスは寄り添う様に生きた。
幼いエルヴィスは、母親を気遣うやさしい子供だった。

余談だが、父親と言う人は中々ハンサムだったが、人が良すぎて(良い意味で言えばね)ころっと騙されるような所も有ったらしい。
エルヴィスが生まれたテューペロに居た頃は、父親は密造酒の運搬のような犯罪まがいのような仕事をしていたらしい。


彼は、とてもシャイで、とても礼儀正しかったと言う事だ。
これは、母親から、目上の人には必ずサーかマムをつける事と厳しくしつけられた事も関係していると思う。
シャイだった彼は、しかし、人の目を気にせずに、自分のスタイルを貫く図太さも持ち合わせていた。
彼の髪型、服装、それらは、当時の白人のボーイのするスタイルとは到底言え無かったらしい。

彼の歌い方や腰の動かし方が変だ、いや、もっと言えば卑猥だ、健全な白人の子供を惑わすものだとずいぶんと抗議も来たらしい。
大人たちは戸惑った、理解出来なかった。
しかし、若者たちは、特に女性は、エルヴィスに熱狂した。
20才の若者たった1人が、音楽で世界を揺さぶったのだ。
すぐに人気は無くなると言う見方に反して、エルヴィスの勢いはもう止まらなかった。
彼は、あっという間にスターになったのだ。

彼は人気絶頂の頃に徴兵される。
そして、兵役についている時に、彼がこの世で最も愛した人=エルヴィスの一番の理解者の母を失う。
グラディスは病気で永遠にエルヴィスの元から去ってしまったのだ。

マザコンと言っていいくらい母親思いだったエルヴィスが、母親を失ってどれほど辛く悲しかった事だろうと思うと胸が痛い。

私個人の考えだけれど、エルヴィスはこの母親の喪失に、生涯、耐えられなかったのではなかろうかと思う。母親の死を乗り越える事は恐らく出来なかったのではないかと。

ドイツに赴任したエルヴィスは、そこで、将来の妻となるプリシラと出会うのだ。

エルヴィスの事は、書きたい事が多く、記事も長くなるので、分けて書いて行こうと思う。

Elvis Aron Presley
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by hanarenge | 2015-08-23 09:04 | Elvis | Comments(0)