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心の万華鏡  

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中之島から難波まで 1

新しいリュックを買いました。

Hデパートで、夏からいいなあと思っていたリュックです。
底にカメラが入るようになっているので、一人でカメラを持ってうろつくのには、とても便利。
背負い心地も確かめたくて、真っ青な秋空の土曜日、中之島までぶらりと。

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ケヤキ並木が心地よい日陰を作ります。ケヤキは大好きな木です。
いつも思う事だけど、工事用の赤いコーンは何とかならない物なのかしらねえ。
マラソンかな、競歩かな、運動クラブの人たちが集まっていました。

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緑の色がとても鮮烈な印象。

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今日は公会堂の中之島倶楽部には寄りません。ここで好きなのはオムライス^^。

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沢山のボートが出てました。すいすいと淀屋橋の方から上がって来ます。

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空の続き(看板邪魔やわぁ)と。
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海の続き。

バラ園から西の方を。
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テーブルの右は、テイクアウトも出来る多国籍グリルレストランがあります。
バラ園の手前(西側)にもイタリアンのレストランがあります。
いつも、横目で見て素通り、今度は行ってみようかな。

淀屋橋の向こうのフェスティバルホールもすっかり新しくなりました。
写真で見えているのは、難波橋です。
電線も地下に埋めて、この辺り、本当に見栄えが良くなりました。
中之島公園は晴が似合うと思います。

バラはまだもう少し先ね。
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Mr.リンカーンは、新芽をいっぱい出しています。

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ルリマツリ(でしょうね?)の色が爽やかに。

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こんな可愛らしい色の花も。

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見ていたらいじらしくなっちゃいます。

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寄せ植えの鉢も元気に。

気持ちのいいお天気で、眩しい水辺で開放感いっぱい。

中之島から難波まで、お付き合いして下さいね。
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by hanarenge | 2013-09-29 20:11 | 散策中 | Comments(6)

戦争の事 酒井雄哉大阿闍梨の事

戦争と言うと、どの戦争を思うだろう。
世界中で、戦争の無かった時代は無しと言うくらいだろう。
古来より、人々は争い殺し合い、世界中の国々は自らの繁栄を戦争と言う手段で実行してきた。
東西冷戦は、遠い昔ではない。ベルリンの壁の崩壊、ソビエト連邦の解体、歓喜に沸く人々。
ニュースで流れるそれらの映像を見ながら、私は、これで平和になると能天気に思っていた。
所が大間違いだった、戦争はますます大きく拡大していった。。。。。

日本で戦争と言えば、やはり第二次世界大戦、太平洋戦争だろう。
私が物心ついたときは、戦後は過去の物になりつつ有った。
もはや戦後ではないと言う言葉が聞かれたのは1956年だったのだ。
私は30年代生まれ、戦後の苦労も戦中の苦労も知らない。知っているのは、だんだんと豊かになる日本の事だけだ。

戦争の事は映像で、文字で、ネットで色々書かれている。
だからイメージとしては解る、しかし、本当の所はどうだったのか。
日本の国民はあの理不尽な時代をどう耐えたのか、父や母に少し聞くだけで、私はあんまり関心を持ち得なかった。
父は、都会で暮らしていて、アメリカがどういう国か良く知る機会が多く有ったらしい。
だから、絶対に日本は負けると思っていたそうだ。折りに触れてそう言う事を言っていたらしいが、職場の人にきつく諌められたと言う事です。
それはその当時としては「日本国民にあるまじき思想」だったろう。
父も、その当時の大半の人と同じように、夢を諦めざるを得なかった一人です。
戦争がなかったら、ずっと都会で暮らして、もしかしたら、渡欧か渡米を果たしたのではなかったかとこの頃私は思います。

96才の遺言
heartartページの中の戦争体験手記のページです。

ここに書かれてある記事は、私もリンクを頂いている「八十代万歳!」のhisakobaabaさんが、入院された時に同室の患者さんでいらした久米けいさんのお話を聞いて、ご本人の了解を得て記事にされたのです。

hisakoさんの 戦中戦後の子供の暮らしも、ここで読む事が出来ます。

hisakobaabaさんの久米けいさんの記事は96歳の遺言 戦争だけはやっちゃダメです。

hisakoさんは70代にブログを始められて、この間80代になられました。
hisakoさんの戦争のお話は、ニュースでは知る事のない「実際の戦争の話」です。

iPadとSurfaceを駆使して、ブログを書いていらっしゃいます。

hisakoさんが、ブログの記事を丸ごと引用してもいいですと仰って下さったんですが、そうしたらとても長文になるので、所々引用させて頂きます。

久米けいさんはこう語ります。青文字がhisakoさんの記事から久米けいさんの語りの引用です。
私の大事な孫や曽孫たちへ。
これはおばあちゃんの、「戦争だけは絶対やっちゃダメ」と言う遺言です。
たった一枚の赤紙(徴兵命令書)で人生を狂わされて、戦争が終わって、もっと酷くなった生活との戦いを、一人で戦わされたおばあちゃんの、「戦争だけはやっちゃダメ」という、叫びです。

私は大正6年3月17日生まれ、平成25年の今、満96歳になりました。
目は見えないし、耳もひどく遠いけど、アパートで一人暮らしをしています。次男には先立たれたけれど、遠くないところに嫁も孫もひ孫もいて、時々来てもらえるし、昼食と、夕食の時に、ヘルパーさんが1時間くらいずつきて、ご飯作ってくれる。
他は昼も夜も一人の時間が長いけど、最近自分で、死に支度を済ませたから、血圧も下がって元気が出た。

大正から昭和になって、世の中はひどく不景気になった。
私が14歳の昭和6年には満州事変が始まった。
始めちゃった戦争を、終わらせる知恵が日本にはなかったんだね。ボロボロになるまで、14年間も戦争ばっかりしてたんだから。
14年間ぼろぼろになるまで戦争してた 終わらせる智慧が日本には無かった これ本当に同感です。

戦争で病気になったんだから戦病死と認められ、九州の部隊に書類を出した。その部隊が沖縄で玉砕しちゃって、戦争が終わったら、提出した死亡診断書が見つからなくなっていた。それっきりうやむやにされて、結果戦病死とは認めてくれなかったよ。

長男が生まれて半年で、夫は戦争に行っちゃった。
次男が生まれて半年で、今度は帰れないあの世に行っちゃった。
結局私は、いつも誰も頼れないまま一人で頑張るしかなかったんだ。
父親も戦争中六十代で死んじゃったしね、男を頼ることのできない運命なんだろうね。


そして、昭和20年4月13日夜、豊島区の殆んどが火の海になったんだ。
330機のB29が豊島区を中心に火の雨を降らせた。
焼夷弾ってやつは一個のさやの中に38発も入ってて、空の上で38倍にはじけ飛んで、燃えながら落ちてくるんだ。何万の火の玉が降ってくるんだから、下に居る者は生きた心地はしないよ。

巣鴨は周り中が火だったから、逃げ道がまるでなかった。
2歳半の次男をおぶって、ねんねこ(子供を負ぶって着られる綿入れの半纏)着て、掛け布団一枚持って、どっちに逃げればいいかわからない状態だった。隣組の組織なんてなんの役にも立ちゃあしなかったよ。

火の雨の中逃げ惑って、水のある所へ行った。貯水槽の水を、バケツで何杯も何杯も掛けてもらって、布団をぐっしょり濡らして被って、火の中を逃げ回ったら、布団が乾いて燃え出した。それを捨てて、走ったら、誰かが「ねんねこ脱げ~っ」て叫んだ。背中が燃え出していたんだ。ねんねこは捨てたが、子供は着ていた着物まで焼け焦げて、火傷をして泣き叫んでいた。
東西南北どっちを見ても、火が燃えてるんだからもう地獄だったね。
その後はどうなったかわかんない。焼夷弾の雨に当たらなかったのが不思議だった。そこら中の地面に筍のように突き刺さってるものを、なんですかって聞いたら、焼夷弾だって言われた。
爆弾も落ちて、吹っ飛ばされた。朝になって、爆弾の落ちた丸い穴の近くに居たら、「ここで死ななかったなんて、奇跡だ」と驚かれた。

幸いにも空襲の晩 母親は、府中の叔父さんの家に泊まっていて助かった。私らも府中に行ったが、長く泊めて貰える状態ではなかった。叔父さんだけはとことん面倒見てくれようとしたんだが、他の家族の嫌がらせに耐えられず、当てもなく飛び出した。親戚にだって、無一文の焼け出されは、いい顔されるわけがないからね。みんな自分たちが食べるにも不自由してたんだから。

それからの、住まいの苦労はひどかったよ。落ち着く暇もなかった。立て続けに引っ越したこともある。
あの頃はね、家が広くたって、焼け出されの一文無しを泊めてやろうなんて家は一軒もなかったよ。みんな冷たかった。

終戦の前の日に、疎開しようと埼玉へ引っ越してしまった。その途端戦争が終わったので、引っ越し荷物を運んできた牛車に、そのまま東京へ戻ってもらった。無駄なことをしたわけだが、でも嬉しかった。日本が負けたんだが、もう焼夷弾に追っかけられないんだから、ただただほっとした。



戦争がどれだけ人の暮らしも心も破壊していくか、戦争がどれだけ人々に難渋を押し付けるか
頭では解ったつもりでいても、実際の体験とは天と地ほどの違いがあります。
空から爆弾が振って来るのです。爆弾はいったん爆撃機の腹から空中に放り出されると、小さく分かれ、地上に激突したら炎となって人も物も焼き尽くすのです。
アメリカは、ネバダか何処かの砂漠に日本の家(木と紙と土で出来た)を沢山建てて、どういう攻撃が一番効果が大きいか実験を繰り返したのです。(随分前にNHKで放送されていました)。
その結果、焼夷弾が作られたのです、これもクラスター爆弾です。

貧乏人は蔑まれる。身内からさえ疎まれる。けど、私が怠けて貧乏になった訳じゃないよ。
国が起こした戦争で、夫も財産もすべて奪われたから、貧乏してるんじゃないか。
今なら、津波で家をなくしても、仮設住宅に住める。空襲で焼け出された者は、仮設住宅の半分もない、四畳半一間だって、法外な家賃を取られてたんだ。国は何も助けちゃあ呉れなかった。何の保障もしなかった。
貧乏は恥ではないが、切なかったさ。


国民は、国が勝手におっぱじめた戦争で、最大の難儀を背負わされるのです。
平等な筈の国民でも、コネのある人は楽が出来、正直な人ほど難儀するのです。
恥ではないが切なかった、この言葉に涙が出ます。

あたし等は国に騙されたんだ。踊らされたんだ。昭和初期のように、右向け右、右へ倣えなんて踊らされていたら、酷いことになるよ。歴史は繰り返しちゃあいけない。

原発だって同じだ。福島でどれ程の人が泣かされてるか、ちゃんと助けてもいないのに、再稼働したいとか、外国に売ろうだなんて、国は何考えてるんだ?信用しちゃダメだ。

とにかく戦争をする国にしちゃあダメなんだからね。
戦争だけはしちゃあならないんだよ。
戦争で良いことなんか何にもないんだからね。これがおばあちゃんの遺言です。 
 

久米銈(けい)さんは、9月19日の中秋の名月の日に亡くなられました。
ご冥福をお祈り致します。
hisakoさんが、まさに遺言の聞き手となられたのです。
hisakoさんが久米けいさんと出会われた事は、本当に良かったと思います。
運命とか奇蹟とか、あまり言いたくありませんが、久米けいさんの言いたかった事が、hisakoさんによって文字になり、多くの人の目に触れる事になった事はとても嬉しい事です。


私が聞いた話。
大阪の空襲の時、燃える町から必死で逃げた人がたどり着いた淀川(と聞いたと記憶しているのですが、ちょっと曖昧ですみません)の向こう岸には沢山の人が押す押すなの状態で逃げて来ていたのです。
向こうに行きたくても、もう人が多すぎて行くのは無理だと言われました。
後ろからは、逃げて来た自分の町が焼き尽くされ、炎は、今度は自分たちを焼き殺そうと背後に迫っていました。
仕方がないので、岸を少し移動して草むらに隠れました(おそらく気休め程度の移動だったと思います)
そこへ、アメリカの爆撃機がもの凄い低空飛行で背後から迫りました。
ふせろ〜〜〜〜〜!!!!!!誰かの大声で、草の中に突っ伏しました。
もの凄い音と共に機銃掃射が始まりました、それは今でも体が震えると言っていました。
頭を上げた時・・・・そこで見た光景は。。。。。。。。
川向こうの大勢の人が体中に穴をあけられ血まみれで、草の中、川の中、土手の上、一面に転がっていたり浮かんでいたのだそうです。

こんな光景が、沢山、沢山、あの町、この町で繰り広げられたのでしょう。

私は命拾いをした。。。。。そう言ってその人は泣いておられた。惨さは忘れられないと・・・・。

戦争は、命の取り合いです、血と火、爆弾の音、果てしなく続く飛行機の爆音。
あの飛行機の爆音は、どんなに恐ろしい音だったでしょうか。

私の叔父(母の弟)は、終戦(敗戦だと父母は言います)間際に招集されました。
赤紙一枚で名誉の入隊です。
村の外れのお墓の所まで皆で送ったそうです。
そして、一ヶ月くらい経って(記憶はあやふやですが)手紙が来たのです。
それには、近く外地に趣くような事が書かれてあったそうです、母は田舎から弟に面会に行きました。
電車はとうに動かないので、ずっと歩いたそうです。線路の上(線路はなかったらしい)を、差し入れを背負ってとぼとぼと歩いたと言います。
その時代は、皆歩くので、母の村から叔父のいるW市まで歩くのはちっとも苦にならなかったそうです。
任地は、軍の機密事項とかではっきりとは言わなかったそうですが、どうも中国らしかったと。

しかし、8月6日に広島に原子爆弾が投下されました。
叔父達の連体は、急遽広島入りを命じられたのです。

母が、戦争が終わって帰って来た叔父から聞いた話として少し私に話してくれた事があります。

まだ、原爆が落ちてから一週間も経っていなかったそうです。
叔父の目の前に真っ黒に焦げた母と子の遺体があったと。
惨い事この上ない地獄絵を叔父は目撃したのです。

軍の倉庫には、砂糖、缶詰、毛布、その他、市場にはとっくに出回らなくなった物が山と積んであったそうです。(これは多分、終戦してからの事だと思います。叔父が終戦を広島で迎えて、その後もすぐには除隊にならなかったのだと思います。)

食料事情はとても悪く、配給制でした。
母の家は田舎で、農家でしたから、町の人のように食べるものが無くて困ったと言う事はありません。
作った米は、勝手には出来ず、供出しなければなりません。
麦を混ぜて米を炊くのですが、どうも不味い。祖母は(母の母です)お粥で食べのばしを計ったそうです。
この他にも、芋、南京などは必須作物です。
魚や肉は配給、でも川で男の子達(母の弟達も)が仕掛けて川ガニや鰻などもたまには食べたとか。鮎も好物です。
きっと食糧難の時代ですから、大人も盛んに獲った筈、子供達では分け前も少なかったでしょうね。
戦後の話ですが、町から食べ物を求めて大勢の人が田舎に来たそうです。
さつま芋を買いに来るのです。
祖母(母の母)は、小さい芋をふかして籠に入れて表に置き、誰でも食べられるようにしていたのですが、ある日、町から来た親子連れが、家の前に立ちました。
さつま芋を少し分けてもらえませんかと言う事です。
大きなさつま芋を出して、売ってあげた後で、籠の芋はオヤツに食べて下さいと言うと、その人はとても喜んでくれたそうです。
その人の小さな男の子は、自分は食べずに、これは誰の分、これは誰の分と言いながら粗末な服のポケットに盛んに芋を詰め込んでいました。
祖母が、お母さんがいっぱいお芋を買うたから、それは食べてもいいよと言うと、ほんまか!と顔中笑顔にして、両手に芋を持ってほおばったと。

美味しい物は食べられなかったけど、ひもじい思いはせんでもすんだと母は言います。
あの子は、毎日毎日お腹をすかしていたんやなあと。。。。。
飢えは、惨い物です。

長くなりました、戦争の記事はいったんこれで終わりにします。

2013年9月23日 酒井大阿闍梨が亡くなられました。

以前千日回峰行のドキュメントをNHKで放送して阿闍梨の事を知りました。

千日回峰行を二度万行
した行者は比叡山の1,000年を超える歴史の中でもわずかに3名を数えるだけです。

私が阿闍梨に惹かれる理由は、下界で何をしても成功せず、それどころか、飲む打つ買うでせっかく貰ったお嫁さんも二ヶ月で自殺してしまったと言う、まあ言わば、しょうもない人物だったと言う所です。
絶望して、お山に上がった酒井さんは、どこで信仰に一身を投げ打つ心を持ったのだろうか。
どんなに修行は辛く厳しく思った事だろうか。
下界にあって、人生に負け続けた酒井さんが大阿闍梨と言われるようになった。
人は変われるのだなあと心底思うのです。

酒井大阿闍梨も、特攻隊の生き残りです。もう死ぬ覚悟で臨んだのに生き残った。
その辺りの気持ちも、その後の下界での破天荒な生き方に何か影響が有ったのでしょうか。

どうぞ安らかに、私が言うのもおこがましいですが。

酒井大阿闍梨、久米けいさん、有り難うございました。
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by hanarenge | 2013-09-28 00:08 | 心模様 | Comments(4)

孫ちゃんたちと、ポテトサラダ が御馳走な訳

9月に書きたい記事はまだ2個残っている。
頭の中では出来上がって?いる(かな?)物の、中々書き起こす気にならずにぐずぐずしているこの頃。

18日には長男宅へ。お嫁ちゃんの心尽くしのランチとお土産に持って行ったケーキでお茶。
ケーキはダイエット中の私が、たまに食べたくて、お嫁ちゃんを巻き込んだのだ。

朝からお邪魔して、真ん中ちゃんと兄貴君がそれぞれ帰ってくるのを待ちながら、美味しいお昼を頂いて、ケーキも食べて、末っ子ちゃんと遊んで、遊んで、楽しかった〜〜〜〜。

兄貴君が先に帰宅、また大人っぽくなった感じです。彼はとても強い子です。
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真ん中ちゃんをお迎えに行く間、末っ子ちゃんは私と兄貴君とでお留守番。
だんだん慣れてくれてあちこちの部屋へ行こうと言います。
それについて歩くとけっこう面白いのです。象の玩具は引っ張って遊びます。

真ん中ちゃんは、お姉ちゃん振りがますます板について来て、妹の相手を良くします。
だから、末っ子ちゃんはお姉ちゃんが帰ると側にくっついています。

お兄ちゃんは宿題をやっつけている最中。
机でするより、ダイニングのテーブルの方がはかどるんだよね^^。

今度お嫁ちゃんと遊びにいく約束して帰って来ました。

ポテトサラダは、私の中では特別な感じがあります。
キュウリと人参、たっぷりのタマネギ、ハムを少し入れて。
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山の分校の給食室は私が小学校2年生の時に建ちました。
真っ黒いおくどさんが据え付けられていました。ご飯はおくどさんで炊きます。
今から思えば、とても贅沢な給食でした。

本校の給食は味気ないパン、たまに出るご飯はガス火炊き、だからちっとも美味しくなかった。
6年生になって本校に登校するようになり、初めて食べたご飯の不味さにショックを受けた事をありありと思い出す。

分校の初めての給食の献立は今でも覚えている。
月曜日は、肉うどん、火曜日は秋刀魚の蒲焼き、水曜日は何故か汁粉が出た。木曜日はヒジキの煮物が有った、金曜日はちらし寿司、だいたいがこんな感じで、後2品くらいかな。
まず〜〜〜いミルクも出たけどさ。

で、火曜日の秋刀魚の蒲焼きに付いているのがポテトサラダだった
専属の調理士さんが来るまでは、父兄が交代で給食当番をした。
火曜日は、母の当番だった。
私は、母がポテトサラダを作るのを、休憩時間に給食室の窓の外から見ていた。
お母ちゃん、ちゃんと出来るやろか・・・・・
何故こんな事を思ったのだろう。。。。。今にして思えば、家でポテトサラダなんて出た事がなかったからだ。
美味しくなくて、皆に残されたらどうしよう、、、、そんな事を思っていた記憶がある。
出来上がってお皿に盛られたポテトサラダをドキドキしながら口に運んだ。
美味しい!!!思わずにっこりした私、その日の給食はメインも付け合わせも味噌汁も全員完食だった。
いや、大概の日の給食は、皆、完食なのだけどね。

子供達と田舎にいた頃、畑から穫ったジャガイモは、母の手で、ポテトサラダに、コロッケに、カレーに、ポテトフライ、煮物、おでんと色々な料理に変身しました。

今でも私にとって、ポテトサラダは特別な御馳走です。
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by hanarenge | 2013-09-22 00:23 | 心模様 | Comments(6)

蒼いトンボと赤いトンボ

久しぶりに「小さな童話」です。

あれは、まだ暑い八月の終わり頃かしら。
買い物を兼ねた散歩の途中、キラキラ光る美しいトンボが私の前を横切っていきました。
翡翠のような体でした。
あのトンボは何処へ行くのかしら・・・・・
そんな事を思っていたら童話を書きたくなったのです。

ブログをリンク頂いている
スポック艦長さんのトンボのお写真にあるトンボが私の見たトンボにとても良く似ていました。
スポック艦長さんに図々しくお願いをしてリンクをさせて頂きました。ありがとうございます。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++
私はその日、谷にいた。
さらさらと流れる澤の水に自分の姿を映して眺めていた。
こんなに高く上がって来たのは初めてだ。
あんまり晴れた美しい日だったから、羽の趣くままに、飛んでみたと言う所かな。

そろそろ下ろう、でなきゃ迷子になっちまう
と、その時、下の澤から風が舞い上がり、私はその風に囚われてどんどん上に運ばれていったのだ。
透明の羽は、風を受けてこれ以上無いほどに広がり、耳元に、ビュンビュンと風の音がする。

どれくらい登っただろう、もう私はあの騒々しい世界に戻れないかもしれないと思った時、ふっと風が息を吸うように途切れたのだ。
今だ!私は生まれてからこんなに羽ばたいた事はないと言うくらい羽を動かし、懸命に風の道から逃げた。
ああ、助かった・・・・ホッとして、急に羽が頼りなく感じられて、私はすぐ側の木の葉の陰で休もうとしたのだ。

葉影から見ると、青い青い空が高く見えて、その下に無数の煌めく羽があった。

おや?目を凝らすとそれは真っ赤に色づく前のトンボの群れだった。

申し遅れたが私もトンボだ。ただし種類は違う。
種類が違うと言う事は、住む所も暮らし方も違うのだ、もちろん言葉も違う。
トンボなんて皆一緒と思っている人間には、期待を裏切って悪いけれどね。
とにかく、私はこの山の中にたった一匹なのだ。

私は、葉の陰からゆっくり飛び立った。
そして赤とんぼになる前の群れに近づいてみたのだ。
初めのうちは、全く相手にもされなかった。
彼らは、山の中で、ひらひら、すいすい、あっちへ行ったりこっちへ飛んだり。。。。。
何の意味があるのかどうか・・・・・・・・・・ひたすら飛んでいるのだ。

さっさと山を下りたらいいのだが、またあの谷風に捕まったら、今度こそ冷たくて空気の薄い、剣のような山のてっぺんまで連れて行かれそうに思って、飛び出す気持ちにはなれなかった。

異邦人のようなトンボの中で私は、それでも飛んでみたのだ。

やがて、ざわめきが起こり暫くすると、一匹のトンボが横に来て、::@・・・と大声で言う。
何を言っているのか全く解らないが、どこから来たと聞いているのだと勘で解った。
山の下から来たと言うと、解ったのか解らなかったのか、へん!とバカにしたようにして飛んでいった。

それから代る代る異邦人が飛んで来る。

そんな事が何日か続いたある日、突然言葉が振って来た。

お前は何者だ。。。。。。

私はトンボだ。

トンボだって?俺たちもトンボだ。

この山の中のトンボは自分達以外のトンボを見た事がないのだろうか?

私とそのトンボは真っ正面から見合った。
丸く大きい目、透明な羽、真っ直ぐな身体、どこからどこまで一緒のようで、やっぱり違う。
種族が違うのだ。

これからどうするのだ?
解らない。ここから降りるのだ。
何故?
時が来たのだ。
時とは?
知らない。時は時だ。

会話はこれだけ、トンボの言葉は多くない。

無駄な事は言わないし言えない。語彙が少ないのだ。
だからと言って不自由ではない。
だいたい、生まれて死ぬまでどれくらいの言葉がいるのだ?

羽を煌めかせて大空を飛ぶ私たちは、飛び方や羽の動かし方で、充分に相手の事が解るのだ。
異邦人のトンボも基本は一緒だと解ったよ。

山の野原の上で、さんざめく光を浴びながら、羽を光らせて飛んでいた群れは、やがてゆっくりと夕焼けのような真っ赤な色に変わっていった。

山を下りるときが来たんだなあと私にも解った。

私も彼らの後について行こう。澤から上がる風の道を避けて飛ぶすべも赤とんぼの群れなら、知っているだろうから・・・・・。

真っ赤な夕焼けの色の群れは、どんどん集まりやがていっせいに麓を目指して羽ばたき始めた。

何故彼らは山に上がるのか、何故また麓に降りるのか?私には解らない、それは彼らだけの生き方なのだろうから。

それでも、短い間に一緒に飛んで、言葉も少し交わした異邦人たちとの飛行は楽しかった。
群れ全体が降りていくのだけど、整然と並んで進むのではなく、あっちへ飛んだりこっちへ曲がったり、降りて来た山の上へ戻ろうとするものもいる。
その度に羽が体をかすめ、しゃらしゃらと言うような不思議な音がした。
赤とんぼの群れは何が可笑しいのか、その度にとても楽しそうに笑うのだ。
赤い体と透明の羽がきらきら、きらきら、光に、またたいて見えるのだ。

私?私はエメラルドと翡翠色のトンボさ。
太陽の下ではまるで宝石のように見えるよ。
暑い夏が私の体を輝かせるのさ。
夏の申し子みたいなものだね。

私が風を切って飛ぶと、人間の子供は目を丸くして、見ているよ。
白い網を振り回しているけれど、なあに、私は凄く早いから捕まりっこないのさ。
それでも、時々は側に行ってやるんだ。
人間の子供は、わあ!綺麗とか何とか言っているよ。
それを聞くと気持ちがいいねえ。

・・・・・お前、ここで・・・・・お・・・・

何?何か言ったのかしら?

赤とんぼ達が羽を広げて空き地の上を舞っている。

お別れだよ、ここで。楽しかったよ。

そうなのか。赤とんぼは麓に降りてここで暮らすのか。

こっちこそありがとう、おかげで無事に降りて来られたよ。
君達と知り合えて良かったよ。じゃあ行くね。

またいつか会えたらいいね。うん、また会えたらいいね

もう会えない事はお互いに何となく解っていた。

そう言う私だって、先の事は解らない。

赤とんぼの方を振返って、羽を思い切り振ってみた。(さようなら・・・・

赤とんぼたちもいっせいに羽を振り返してくれた。(さようなら・・・・

赤い色が燃え立つように輝いていたよ。

私の翡翠の色もうんと青く光って見えていたらいいな。

私はそう思うと泣きそうになった。

涙を見られたら恥ずかしいや。。。。

私はもう振返らずに真っ直ぐに高く飛んだ。
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by hanarenge | 2013-09-10 21:42 | 小さな童話 | Comments(6)

阿修羅さんに会いたくて

九月になって、朝夕の涼しさに秋を感じるこの頃。

九月のブログには、書きたい事が三つある。

トンボの童話と、戦争の事、私の息子達の事。

だけど、今日は阿修羅さんに会いたくて奈良まで行った私。撮れたてと言うにはおこがましいから。
ほやほやの奈良。雨に洗われた山々が車窓から美しく見えていた初秋の一日でした。
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興福寺国宝館に行けば何時でも会える。これが嬉しい。奈良は仏像が良い。
どの仏像のお顔も身体も。。。。国宝がずらりと勢揃いで贅沢な気分です。

国宝館でずらりと並んだ仏像を見ていると、落ち着いた気分になります。
興福寺のHPです。
さて、ちょうど修学旅行のシーズンになって来ているのかしら、秋の遠足かしら。
高校生?中学生?沢山の観光バスと生徒達がうじゃうじゃ^^。
午後4時前の国宝館はまだまだ沢山の見学者、、、、もう少し後にしよう・・・・。

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この景色は今だけね。
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中金堂の再建です。
平成の再建が歴史になるのは百年後?二百年後?もっと先?
ちょうど私たちが、鎌倉時代、もっと下って江戸時代、そして明治と順を追うように平成も歴史の彼方に去り行くのね。
後の世の人たちは、平成の息吹を感じてくれるかしら。。。。。。

午後4時の影。
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松ぼっくりはいつからここに?西日の影に夏は終わったと感じた。
興福寺の塔頭寺院の百日紅。
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夏の終わりを知らぬげに、意気揚々と咲いていた。

夏が過ぎて秋が来ても、思う事は変わりまへん・・・・はず・・・・。
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静かになった東金堂前。阿修羅さんの見学を終えて国宝館から出たのは午後5時前でした。
昔は、東金堂に阿修羅さんもいてはったんえ。
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興福寺と言えば。。。。。
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この重厚な五重塔です。
多分昭和30年とか40年くらいまでは、囲いも無くこの塔のすぐ下まで行って遊べたんやろな。

東金堂の向こうに見える山は?南の方角かな?西向きとあるから生駒かな?
深く大きい軒が迫る。
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帰る前に猿沢池から。ちょっと雰囲気変わったように思いませんか?
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それは。
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向こうの柳の木が少ないでしょう?二本しか残ってへんし。。。。
私も気ぃつかへんかった。池端で話している人が居たはってそんで解ったんです^^。
3時半頃着いて5時半の電車で帰りました。
2時間も居てへんかった奈良。阿修羅さんに会えたからそんでええねん。

そうや、お土産見てくれはる?
奈良の宇陀のアンテナショップで草餅、あんこ入りとあんこ無しのん。あんこ無しの方が私は好き。
(ダイエット関係おまへんで、前からやねん)
ストールを巻いていくのん忘れて、首元が汗ばむのが嫌いでいつもストールか日本手ぬぐいを巻いてます。
そんで、買おうと思ったんやけど気に入ったストールが一つ桁が違てましてん 笑。
そんなに持ち合わせてないから、奈良に来たら必ず覗く日本手ぬぐいの朱鳥(あけみとり)さんへ
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麻の葉にしました。首にふわっと巻くと気持ちいいんです。

興福寺の阿修羅さん、いつもと変わらずしんと立ってお出でです。
可愛らしい爪まで見えます。きっと桜色やったんやろなって思てます。
国宝館には阿修羅さんだけではのうて、立派な仏像や可愛らしい仏さんが沢山あります。
国宝館で焚くお線香が凄くいい香りで、なんでもこれは薬師寺香と言うんやそうです。
東金堂で買い求められます。一箱¥3500なり〜〜〜〜〜。家の佛さん用に今度買うねん^^。
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by hanarenge | 2013-09-07 00:18 | 奈良 | Comments(12)

シリアの事

「記者が見たシリア無差別攻撃の現実」
newsweekijapanに記事が載っています。

newsweekiのトップページからでも読めます。

世界報道写真展の、あの、光景がまざまざと甦ります。

日本の報道ではまず出ない現場の体験。

爆弾の降る下での医療活動。

パレスチナとイスラエルもこのような事ばかりです。

21世紀に入り、中東はますます混沌として来ました。

アメリカとロシアに支配された長い東西冷戦時代に終わりを告げて、新しい世紀が始まりましたが。。。その冷戦時代に芽が出て、大きく育ったのは・・・・・。

ベルリンの壁が崩れ、歓喜の嵐のニュースを見ながら、これで戦争は無くなるだろう、もっと平和になるだろう。
のーてんきに思った自分はあまりにもナイーブでした。

荒れている、怒っている、泣いている。    どうにも辛い出来事ばかりです。
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by hanarenge | 2013-09-03 13:56 | ニュース | Comments(2)

この夏の美味しいもの

今年は例年にも増してスイカを食べてます。

大きな丸いスイカ、緑の縞模様で、夏の果物の主役です。

でも、高級感よりか、庶民の台所が似合います。
果物屋より八百屋で売られている。私のスイカのイメージはそんな感じ。
最近は、大きなスイカは段々人気がないのだって。核家族だもんね。

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我が家もご多分に漏れず、小玉スイカです。クロカワとか一人占めとか書いてあるスイカ。
大きなスイカのカットのは、持って帰る時に他の買い物に当たって果肉のシャリ感が損なわれる事が多いから。。。。
その点、小玉は丸ごといけますもんね。
今年のスイカは特に甘かった!買い物に出る度に他の果物よりスイカに手が出る蓮花草です。

この夏の私の好きなものを。
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頂いた白桃は、別嬪さんこの上も無し^^スーッと手で剥けてとても美味しかった。
赤いのはね、お気に入りのゼリー。鎌倉コーヨーゼリーのトマト。ギュッと凝縮の味がいいのね。
寒天ゼリーだから、この暑い中でも、どこへでも持って行けてよ。

一番下の右端は、ご近所の老舗の和菓子屋さんの「しんこ」。
一ヶ月出るか出ないかの幻のお菓子よ^^
鳥居本の平野屋で食べたしんこは、柔らかかったけど、これは歯ごたえもむっちりとしていて私のお気に入りよ。

もう一挙に載せちゃうから、写真多くてもごめんなさいね。

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切り干しの炊いたん。これは大人にならないと解らない味よ。

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冬瓜と海老のあんかけ、これも大人にだけ解る味ね。
小林カツ代さんのレシピです。私は小林カツ代さんが好きだなあ。。。。
ケーキ作りも彼女の 楽々ケーキ作りの本から始まったんだもの。
お具合が悪くなられてからもう長いけど、彼女の明るい声が聞けないのは残念です。
息子さんのケンタロウさんも好きだったけど。。。。世の中何が起こるか解りませんね。

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圧力釜でウズラ豆と昆布、人参と手羽元を炊きました。レシピは手羽先だけど、無かったもん^^。
お酒とみりんとお醤油で炊き上げます。
夏こそ煮込み?圧力釜は短時間で出来るから、暑い夏には向いてます。

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これは?ゴミではありません、まして、は○○○でもありませぬ。
メキシコのスモーク岩塩です。
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椎茸を焼くとき、カサの裏に岩塩をのっけます。じわ〜〜〜っと熱でカサに水気が出て岩塩が溶けた頃が食べごろです.酢橘をキュッと搾ってね。

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じゃ〜〜〜ん、今日やっと届いた「なよろホワイトコーン」
いつも思うのは、コーンの中の皮がとても美しいなあと。この薄緑色は本当に綺麗。
今日のオヤツは。
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取り合わせ悪い?笑。あら!ホワイトコーンがテカっちゃったわ。

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真珠色のコーンは、光の加減で薄く黄色に染まって見えます。
甘いですよ。
明日、長男の所にもあげます。孫ちゃん達も大好きなんです。

この夏の、美味しいもの、少しだけ^^載せました。
食べ物を美味しく頂けるのは、幸せですね。
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by hanarenge | 2013-09-01 21:55 | キッチンから | Comments(6)

 心模様の一こまを・・   れんげそう