心の万華鏡  

hanarenge.exblog.jp
ブログトップ
2006年 09月 13日

春日原生林

d0027244_19135235.jpg

春日原生林の遊歩道が、柳生街道(滝坂の道)と、隣接している所があります。チョッと休憩できるような、ベンチがあって、この石畳の道が柳生へと続いています
d0027244_19165957.jpg

大きな木が、二本立っていて、首切地蔵があるのです ちなみ、このお地蔵さんから右手に向かって細い道がもう一本あり、地獄谷へと続きます。地獄谷の由来は春日原生林の中には地獄があるといわれていたことからだと言う説と、この地に風葬をしたという説があるようです。
(誤字訂正です。いきなり書くので、後で読み返すと何と誤字の多いこと。
ワードパットなどで、書いて、コピー&ペーストすれば良いのでしょうが・・・・・
皆様はいかがされていますか?9/14)
d0027244_1918312.jpg

荒木又右衛門にためし斬りにされたって・・・・災難ですね、お地蔵さん

この細い石畳の道が、昭和初期までは生活道路として、活躍していたのです。
丁寧に敷き詰められたこの石畳を、色々な物や沢山の人が登っていったのでしょう。
石畳は、大勢の人の通行で、もっと、光っていたかもしれません。
谷川の音を聞きながら、どんな人たちが、ここを通っていったのでしょうか
柳生の関係者も、この石畳を登ったのでしょうか。
権力の中枢にあったといわれる柳生一族、密使も人目を欺く姿でここを登ったのかと、思ったのです。
この石畳には、時代の波に流された人々の思いも落ちていたのでしょうか。

石畳の道の向こうに、時代の影が見えてきそうでした。

高校生の頃、雨が降る中を、この滝坂の道を柳生まで越えたことがあります。
柳生の里の様子は、記憶からすっぱりと抜け落ちているのですが、この道の面影は、古い記憶の中から、鮮やかによみがえってきました。
[PR]

by hanarenge | 2006-09-13 19:39 | 奈良 | Comments(8)
Commented by happykota at 2006-09-13 20:58 x
こんばんわ!
滝坂の道は四季折々に楽しい道ですよね。
宝蔵院流槍術との試合のために、宮本武蔵も通ったのではと
思っています。
滝坂の道を抜けて柳生への峠の茶屋も昔のままのようで趣がありますが、
手作りの草もちが美味しくて時々訪ねています。
Commented by yoas23 at 2006-09-14 07:56
首切り地蔵とか地獄谷とかおっかなない名前が多いですね。
それだけ昔の人は謙虚だったのでしょうね。
紀伊半島の方の街道は何処も石畳が多いようですが、やはり通行量の多い場所だからでしょうか?
雨が多い所ですからすぐにぬかるんでしまうからでしょうか?
飛騨には石畳の街道はあまりり見られません。
Commented by namazu_5757 at 2006-09-14 09:11
私は5月に反対周りで歩きました。かなり歩きごたえがありますよね。
滝坂の道を歩いているとき、私も昔のことを考えながらでした。
着物や袴にワラジで歩いたんだろうなと。この山道じゃワラジもすぐ痛んで私みたいな貧乏人で裸足で歩いた人もいただろうなと。
Commented by brizu at 2006-09-14 10:14
荒木又右衛門はこの時代に軒並み実在した剣客のなかでは
遅くにでてきた一人ですね。
武蔵やら小次郎やら、柳生やら、そんな時代と今を繋ぐ道には
感慨深いものがあります。
Commented by hanarenge at 2006-09-14 12:06
happykotaさん♪お久しぶりです、おいで頂いて嬉しいです。
古道を誰が歩いたのか、宮本武蔵もここを歩いたのか等など、考えながら歩くのは本当に面白いですね。
その頃の景色はどうだったかとか、風や空の感じなんかも、今とは違っていたかしらなんて、とても、趣がありますね。
峠の茶屋、ここはよく写真で紹介されたりしていますよね。
きっと、古の旅人もここで一休みしたのでしょうね。
私もこの秋、柳生街道を歩きたいと考えています。
Commented by hanarenge at 2006-09-14 12:19
yoas23さん♪何とも、おどろおどろしい名前ですよね。
>昔の人は謙虚だったのでしょうね yoas23さんのこのお言葉、ウンウンと頷いています。毎日の生活の営みのなかにも、信仰や行事を通して恐れを、自覚していると言うか、そういうふうに思いました。
古道は石畳がよく見られますね、やはり、風化することなく残っているのでしょうね。
石畳の道は、なんでも、元々その道にあると言うか地中に埋もれている根石を利用して、更に、石畳を敷いたらしいです(柳生はどうかわかりませんが)。
水害に対する対策も地形を考え、合理的に作ってあるようです。
往来の激しい、狭い坂道では、人馬や牛の足が泥濘にとられたり、土の道ではすぐにボコボコになってしまうから・・かもしれませんね。
飛騨も男道と言う道があると聞きましたけれど、これは、銀山とか、関係しているのでしょうか?
Commented by hanarenge at 2006-09-14 12:35
namazuさん♪水谷茶屋のほうから登られたのですね。
遊歩道は広いし歩きやすいですが、距離もありますから、本当に歩きごたえがありますね。
私はこの地獄谷の休憩所辺りからちょっと横腹が痛み出して、この後、大変でした。
鹿との格闘も含めて、後ほどアップいたしますので、又、御覧下さいな^m^
namazuさんは滝坂の道も歩かれたのですね、私は今回は遊歩道だけでしたので、もう一度、柳生から下ろうかななんて思っています。
昔の人は健脚でしたね、京都から江戸までだって歩いちゃうんですもの
まあ、移動手段が限られていたからですが、歩くと言う行動は心にもとてもいい事だとか、感じました。
裸足でですか!!薄い草鞋が擦り切れて捨ててしまった人もいるでしょうね。
代えを用意していたでしょうが、裸足で歩く人もいたかもしれません。
石畳は冷たくてすべらかで、夏なんかは、返って気持ちが良かったりしてそれが好きで歩いた人もいるかもしれませんよね♪
Commented by hanarenge at 2006-09-14 12:52
brizuさん♪荒木又右衛門の映画、かなり昔、母に連れられてみました
何だかあんまり覚えていないのですが、頭に白い鉢巻を巻いて、土ぼこりをあげながら走って行ったシーンを覚えています。
あっいけないです、現実のお話ですね(^^ゞ
江戸時代は、剣豪が多く出ている気がするのですが、何故なのでしょうか?戦で明け暮れた時代は去って、文化が成熟してきた時代に剣豪がいる事に興味があります。
道場を開いたり、そこに通えるくらい余裕が出たからでしょうか?
豊臣の時代が終り、長い政権安泰の時代に入り、腕に物を言わせ仕官する事が流行ったのでしょうか?
なんて考えると、又、眠れなくなりそうです。歴史を思うと、その中心の脇にいた人たちはどうであっただろうかなんて、空想は取り止めもなく膨らんでしまいます。
柳生の里は、やはり、忍者の里として機能したのでしょうか。剣豪と忍者何だかとっても面白いです。
話しが脱線しました・・・すみません。
名前
URL
画像認証
削除用パスワード


<< 鶯の滝から若草山で。。。。。      9.11 覚えておきたい事 >>