2013年 09月 28日

戦争の事 酒井雄哉大阿闍梨の事

戦争と言うと、どの戦争を思うだろう。
世界中で、戦争の無かった時代は無しと言うくらいだろう。
古来より、人々は争い殺し合い、世界中の国々は自らの繁栄を戦争と言う手段で実行してきた。
東西冷戦は、遠い昔ではない。ベルリンの壁の崩壊、ソビエト連邦の解体、歓喜に沸く人々。
ニュースで流れるそれらの映像を見ながら、私は、これで平和になると能天気に思っていた。
所が大間違いだった、戦争はますます大きく拡大していった。。。。。

日本で戦争と言えば、やはり第二次世界大戦、太平洋戦争だろう。
私が物心ついたときは、戦後は過去の物になりつつ有った。
もはや戦後ではないと言う言葉が聞かれたのは1956年だったのだ。
私は30年代生まれ、戦後の苦労も戦中の苦労も知らない。知っているのは、だんだんと豊かになる日本の事だけだ。

戦争の事は映像で、文字で、ネットで色々書かれている。
だからイメージとしては解る、しかし、本当の所はどうだったのか。
日本の国民はあの理不尽な時代をどう耐えたのか、父や母に少し聞くだけで、私はあんまり関心を持ち得なかった。
父は、都会で暮らしていて、アメリカがどういう国か良く知る機会が多く有ったらしい。
だから、絶対に日本は負けると思っていたそうだ。折りに触れてそう言う事を言っていたらしいが、職場の人にきつく諌められたと言う事です。
それはその当時としては「日本国民にあるまじき思想」だったろう。
父も、その当時の大半の人と同じように、夢を諦めざるを得なかった一人です。
戦争がなかったら、ずっと都会で暮らして、もしかしたら、渡欧か渡米を果たしたのではなかったかとこの頃私は思います。

96才の遺言
heartartページの中の戦争体験手記のページです。

ここに書かれてある記事は、私もリンクを頂いている「八十代万歳!」のhisakobaabaさんが、入院された時に同室の患者さんでいらした久米けいさんのお話を聞いて、ご本人の了解を得て記事にされたのです。

hisakoさんの 戦中戦後の子供の暮らしも、ここで読む事が出来ます。

hisakobaabaさんの久米けいさんの記事は96歳の遺言 戦争だけはやっちゃダメです。

hisakoさんは70代にブログを始められて、この間80代になられました。
hisakoさんの戦争のお話は、ニュースでは知る事のない「実際の戦争の話」です。

iPadとSurfaceを駆使して、ブログを書いていらっしゃいます。

hisakoさんが、ブログの記事を丸ごと引用してもいいですと仰って下さったんですが、そうしたらとても長文になるので、所々引用させて頂きます。

久米けいさんはこう語ります。青文字がhisakoさんの記事から久米けいさんの語りの引用です。
私の大事な孫や曽孫たちへ。
これはおばあちゃんの、「戦争だけは絶対やっちゃダメ」と言う遺言です。
たった一枚の赤紙(徴兵命令書)で人生を狂わされて、戦争が終わって、もっと酷くなった生活との戦いを、一人で戦わされたおばあちゃんの、「戦争だけはやっちゃダメ」という、叫びです。

私は大正6年3月17日生まれ、平成25年の今、満96歳になりました。
目は見えないし、耳もひどく遠いけど、アパートで一人暮らしをしています。次男には先立たれたけれど、遠くないところに嫁も孫もひ孫もいて、時々来てもらえるし、昼食と、夕食の時に、ヘルパーさんが1時間くらいずつきて、ご飯作ってくれる。
他は昼も夜も一人の時間が長いけど、最近自分で、死に支度を済ませたから、血圧も下がって元気が出た。

大正から昭和になって、世の中はひどく不景気になった。
私が14歳の昭和6年には満州事変が始まった。
始めちゃった戦争を、終わらせる知恵が日本にはなかったんだね。ボロボロになるまで、14年間も戦争ばっかりしてたんだから。
14年間ぼろぼろになるまで戦争してた 終わらせる智慧が日本には無かった これ本当に同感です。

戦争で病気になったんだから戦病死と認められ、九州の部隊に書類を出した。その部隊が沖縄で玉砕しちゃって、戦争が終わったら、提出した死亡診断書が見つからなくなっていた。それっきりうやむやにされて、結果戦病死とは認めてくれなかったよ。

長男が生まれて半年で、夫は戦争に行っちゃった。
次男が生まれて半年で、今度は帰れないあの世に行っちゃった。
結局私は、いつも誰も頼れないまま一人で頑張るしかなかったんだ。
父親も戦争中六十代で死んじゃったしね、男を頼ることのできない運命なんだろうね。


そして、昭和20年4月13日夜、豊島区の殆んどが火の海になったんだ。
330機のB29が豊島区を中心に火の雨を降らせた。
焼夷弾ってやつは一個のさやの中に38発も入ってて、空の上で38倍にはじけ飛んで、燃えながら落ちてくるんだ。何万の火の玉が降ってくるんだから、下に居る者は生きた心地はしないよ。

巣鴨は周り中が火だったから、逃げ道がまるでなかった。
2歳半の次男をおぶって、ねんねこ(子供を負ぶって着られる綿入れの半纏)着て、掛け布団一枚持って、どっちに逃げればいいかわからない状態だった。隣組の組織なんてなんの役にも立ちゃあしなかったよ。

火の雨の中逃げ惑って、水のある所へ行った。貯水槽の水を、バケツで何杯も何杯も掛けてもらって、布団をぐっしょり濡らして被って、火の中を逃げ回ったら、布団が乾いて燃え出した。それを捨てて、走ったら、誰かが「ねんねこ脱げ~っ」て叫んだ。背中が燃え出していたんだ。ねんねこは捨てたが、子供は着ていた着物まで焼け焦げて、火傷をして泣き叫んでいた。
東西南北どっちを見ても、火が燃えてるんだからもう地獄だったね。
その後はどうなったかわかんない。焼夷弾の雨に当たらなかったのが不思議だった。そこら中の地面に筍のように突き刺さってるものを、なんですかって聞いたら、焼夷弾だって言われた。
爆弾も落ちて、吹っ飛ばされた。朝になって、爆弾の落ちた丸い穴の近くに居たら、「ここで死ななかったなんて、奇跡だ」と驚かれた。

幸いにも空襲の晩 母親は、府中の叔父さんの家に泊まっていて助かった。私らも府中に行ったが、長く泊めて貰える状態ではなかった。叔父さんだけはとことん面倒見てくれようとしたんだが、他の家族の嫌がらせに耐えられず、当てもなく飛び出した。親戚にだって、無一文の焼け出されは、いい顔されるわけがないからね。みんな自分たちが食べるにも不自由してたんだから。

それからの、住まいの苦労はひどかったよ。落ち着く暇もなかった。立て続けに引っ越したこともある。
あの頃はね、家が広くたって、焼け出されの一文無しを泊めてやろうなんて家は一軒もなかったよ。みんな冷たかった。

終戦の前の日に、疎開しようと埼玉へ引っ越してしまった。その途端戦争が終わったので、引っ越し荷物を運んできた牛車に、そのまま東京へ戻ってもらった。無駄なことをしたわけだが、でも嬉しかった。日本が負けたんだが、もう焼夷弾に追っかけられないんだから、ただただほっとした。



戦争がどれだけ人の暮らしも心も破壊していくか、戦争がどれだけ人々に難渋を押し付けるか
頭では解ったつもりでいても、実際の体験とは天と地ほどの違いがあります。
空から爆弾が振って来るのです。爆弾はいったん爆撃機の腹から空中に放り出されると、小さく分かれ、地上に激突したら炎となって人も物も焼き尽くすのです。
アメリカは、ネバダか何処かの砂漠に日本の家(木と紙と土で出来た)を沢山建てて、どういう攻撃が一番効果が大きいか実験を繰り返したのです。(随分前にNHKで放送されていました)。
その結果、焼夷弾が作られたのです、これもクラスター爆弾です。

貧乏人は蔑まれる。身内からさえ疎まれる。けど、私が怠けて貧乏になった訳じゃないよ。
国が起こした戦争で、夫も財産もすべて奪われたから、貧乏してるんじゃないか。
今なら、津波で家をなくしても、仮設住宅に住める。空襲で焼け出された者は、仮設住宅の半分もない、四畳半一間だって、法外な家賃を取られてたんだ。国は何も助けちゃあ呉れなかった。何の保障もしなかった。
貧乏は恥ではないが、切なかったさ。


国民は、国が勝手におっぱじめた戦争で、最大の難儀を背負わされるのです。
平等な筈の国民でも、コネのある人は楽が出来、正直な人ほど難儀するのです。
恥ではないが切なかった、この言葉に涙が出ます。

あたし等は国に騙されたんだ。踊らされたんだ。昭和初期のように、右向け右、右へ倣えなんて踊らされていたら、酷いことになるよ。歴史は繰り返しちゃあいけない。

原発だって同じだ。福島でどれ程の人が泣かされてるか、ちゃんと助けてもいないのに、再稼働したいとか、外国に売ろうだなんて、国は何考えてるんだ?信用しちゃダメだ。

とにかく戦争をする国にしちゃあダメなんだからね。
戦争だけはしちゃあならないんだよ。
戦争で良いことなんか何にもないんだからね。これがおばあちゃんの遺言です。 
 

久米銈(けい)さんは、9月19日の中秋の名月の日に亡くなられました。
ご冥福をお祈り致します。
hisakoさんが、まさに遺言の聞き手となられたのです。
hisakoさんが久米けいさんと出会われた事は、本当に良かったと思います。
運命とか奇蹟とか、あまり言いたくありませんが、久米けいさんの言いたかった事が、hisakoさんによって文字になり、多くの人の目に触れる事になった事はとても嬉しい事です。


私が聞いた話。
大阪の空襲の時、燃える町から必死で逃げた人がたどり着いた淀川(と聞いたと記憶しているのですが、ちょっと曖昧ですみません)の向こう岸には沢山の人が押す押すなの状態で逃げて来ていたのです。
向こうに行きたくても、もう人が多すぎて行くのは無理だと言われました。
後ろからは、逃げて来た自分の町が焼き尽くされ、炎は、今度は自分たちを焼き殺そうと背後に迫っていました。
仕方がないので、岸を少し移動して草むらに隠れました(おそらく気休め程度の移動だったと思います)
そこへ、アメリカの爆撃機がもの凄い低空飛行で背後から迫りました。
ふせろ〜〜〜〜〜!!!!!!誰かの大声で、草の中に突っ伏しました。
もの凄い音と共に機銃掃射が始まりました、それは今でも体が震えると言っていました。
頭を上げた時・・・・そこで見た光景は。。。。。。。。
川向こうの大勢の人が体中に穴をあけられ血まみれで、草の中、川の中、土手の上、一面に転がっていたり浮かんでいたのだそうです。

こんな光景が、沢山、沢山、あの町、この町で繰り広げられたのでしょう。

私は命拾いをした。。。。。そう言ってその人は泣いておられた。惨さは忘れられないと・・・・。

戦争は、命の取り合いです、血と火、爆弾の音、果てしなく続く飛行機の爆音。
あの飛行機の爆音は、どんなに恐ろしい音だったでしょうか。

私の叔父(母の弟)は、終戦(敗戦だと父母は言います)間際に招集されました。
赤紙一枚で名誉の入隊です。
村の外れのお墓の所まで皆で送ったそうです。
そして、一ヶ月くらい経って(記憶はあやふやですが)手紙が来たのです。
それには、近く外地に趣くような事が書かれてあったそうです、母は田舎から弟に面会に行きました。
電車はとうに動かないので、ずっと歩いたそうです。線路の上(線路はなかったらしい)を、差し入れを背負ってとぼとぼと歩いたと言います。
その時代は、皆歩くので、母の村から叔父のいるW市まで歩くのはちっとも苦にならなかったそうです。
任地は、軍の機密事項とかではっきりとは言わなかったそうですが、どうも中国らしかったと。

しかし、8月6日に広島に原子爆弾が投下されました。
叔父達の連体は、急遽広島入りを命じられたのです。

母が、戦争が終わって帰って来た叔父から聞いた話として少し私に話してくれた事があります。

まだ、原爆が落ちてから一週間も経っていなかったそうです。
叔父の目の前に真っ黒に焦げた母と子の遺体があったと。
惨い事この上ない地獄絵を叔父は目撃したのです。

軍の倉庫には、砂糖、缶詰、毛布、その他、市場にはとっくに出回らなくなった物が山と積んであったそうです。(これは多分、終戦してからの事だと思います。叔父が終戦を広島で迎えて、その後もすぐには除隊にならなかったのだと思います。)

食料事情はとても悪く、配給制でした。
母の家は田舎で、農家でしたから、町の人のように食べるものが無くて困ったと言う事はありません。
作った米は、勝手には出来ず、供出しなければなりません。
麦を混ぜて米を炊くのですが、どうも不味い。祖母は(母の母です)お粥で食べのばしを計ったそうです。
この他にも、芋、南京などは必須作物です。
魚や肉は配給、でも川で男の子達(母の弟達も)が仕掛けて川ガニや鰻などもたまには食べたとか。鮎も好物です。
きっと食糧難の時代ですから、大人も盛んに獲った筈、子供達では分け前も少なかったでしょうね。
戦後の話ですが、町から食べ物を求めて大勢の人が田舎に来たそうです。
さつま芋を買いに来るのです。
祖母(母の母)は、小さい芋をふかして籠に入れて表に置き、誰でも食べられるようにしていたのですが、ある日、町から来た親子連れが、家の前に立ちました。
さつま芋を少し分けてもらえませんかと言う事です。
大きなさつま芋を出して、売ってあげた後で、籠の芋はオヤツに食べて下さいと言うと、その人はとても喜んでくれたそうです。
その人の小さな男の子は、自分は食べずに、これは誰の分、これは誰の分と言いながら粗末な服のポケットに盛んに芋を詰め込んでいました。
祖母が、お母さんがいっぱいお芋を買うたから、それは食べてもいいよと言うと、ほんまか!と顔中笑顔にして、両手に芋を持ってほおばったと。

美味しい物は食べられなかったけど、ひもじい思いはせんでもすんだと母は言います。
あの子は、毎日毎日お腹をすかしていたんやなあと。。。。。
飢えは、惨い物です。

長くなりました、戦争の記事はいったんこれで終わりにします。

2013年9月23日 酒井大阿闍梨が亡くなられました。

以前千日回峰行のドキュメントをNHKで放送して阿闍梨の事を知りました。

千日回峰行を二度万行
した行者は比叡山の1,000年を超える歴史の中でもわずかに3名を数えるだけです。

私が阿闍梨に惹かれる理由は、下界で何をしても成功せず、それどころか、飲む打つ買うでせっかく貰ったお嫁さんも二ヶ月で自殺してしまったと言う、まあ言わば、しょうもない人物だったと言う所です。
絶望して、お山に上がった酒井さんは、どこで信仰に一身を投げ打つ心を持ったのだろうか。
どんなに修行は辛く厳しく思った事だろうか。
下界にあって、人生に負け続けた酒井さんが大阿闍梨と言われるようになった。
人は変われるのだなあと心底思うのです。

酒井大阿闍梨も、特攻隊の生き残りです。もう死ぬ覚悟で臨んだのに生き残った。
その辺りの気持ちも、その後の下界での破天荒な生き方に何か影響が有ったのでしょうか。

どうぞ安らかに、私が言うのもおこがましいですが。

酒井大阿闍梨、久米けいさん、有り難うございました。
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by hanarenge | 2013-09-28 00:08 | 心模様 | Comments(4)
Commented by hisako-baaba at 2013-09-28 23:07
こんばんは
96歳の遺言をご紹介くださって有難うございました。
皆様に、全文を読んでいただきたいです。

酒井大阿闍梨は、特攻隊の生き残りでしたか。それで納得がいきます。
敗戦後、特攻隊から生還した人たちは、本当に可哀想でした。死ねとばかり教えられてきて、世の中変わったんだから生きろと言われたって、何を目標にすれば良いか分からない。悲惨な国内事情の中で、行き場もなく、ヤケになってデタラメな暮らしをしていた若者は多かった。
大阿闍梨になるほどの、厳しい修行に身を投じられたのも、悲惨すぎる戦後体験があってのことでしょうね。
Commented by hisako-baaba at 2013-09-28 23:10
追伸
ポテトサラダのお話、素敵ですね。

戦争中ジャガイモを庭で作りましたが、マヨネーズはないから、味のない粉吹き芋にしてました。
Commented by hanarenge at 2013-09-29 10:33
hisakoさま。
こちらこそ、有り難うございます。
おけいさんの事を良くアップして下さったと感謝です。
出会われた事は、必然の事なのだと考えています。世の中の巡り合わせって粋な事をするなあと。
酒井大阿闍梨の番組がユーチューブにアップされていて、それを聞いていると何の気負いもなく、自然になされていて、大きな魅力を感じました。

アメリカでも、除隊になった若者が(ベトナム戦争の時くらいから?)国の為に闘ったのに何の感謝もされず、かえって戦争に行ったと白い目で見られ、戦場での心的外傷に苦しめられ、行き場を失って薬や犯罪に落ちていく事が多いと聞きました。
イラクでもアフガンでも一緒ですね。
特攻隊も、出撃までの事が美しい話として持ち上げられていますが、若者を追いつめる心理が非常に嫌いです。
話をするのなら、美談仕立てにはして欲しくないですね、ありのままを伝えて貰いたいですね。
hisakoさまの戦争の体験のお話、毎日一話ずつ読んでいます。


Commented by hanarenge at 2013-09-29 10:36
ポテトの事書こうとしたら文字制限でした^^;;
マヨネーズは、もう手に入らなかったのですね。
粉ふきいもは喉がつまる感じがしませんか?
サツマイモばかり食べたと言う母に、いいやんか、美味しいもんと言うと、ごこくとか言う種類でちっとも美味しくなかったと言います。
カボチャは校庭にも植えたそうです。
母がカボチャ嫌いなのも戦争中にそればかり食べたからだと言います。
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